太地町と神津島の縁

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先日、以前から行きたかった神津島に行くことができた。
捕鯨問題とは直接関係ないが、そのことを書きたい。

横浜からおよそ10時間。
名古屋からだと、およそ半日がかりの、とても長い移動距離で、それなりに疲れはあったものの、とても有意義な旅になった。
 

旅のきっかけ

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僕が神津島を目指した理由は、太地町にある大背美流れという大きな海難事故の記録の中に、生存者と犠牲者の一部が神津島まで流されたという話があることを知ったからだ。
初めて太地を訪れた際の目的の一つにも、このことを記憶にとどめるために建てられた「漂流人記念碑」という石碑を見に行くことがあり、上の写真はその際に撮影したものだ。
 
その後、神津島という場所のことを時折思い出してはいたが、実際に自分が行くことになるとは想像もしていなかった。

最初に場所を確認した時に「恐らくは一生行くことのない場所だろう」と思い込んでいただけに、パンフレットを頂いて眺めてはみたものの、そこに立つ自分が想像できなかった。
 

しかし今年の10月に太地を訪れた際に、そして、Wikipediaに関する一件もあり、自分がその場に行かなければならないのではないかと思った。

 
そして、その事実の確認の他に、もう一つ気になっていたことがあった。
それは、「ここまで流されてしまった人たちは、どんな気持ちで海を眺めたのだろうか?」を知りたかった、共感したかったからだ。

亡くなられた方がとても多いこの事故のことにも関わらず、このようなことに興味を持ってしまうことはとても不謹慎ではあったが、その感情を知りたくなり、正確にどこに流れ着いたのかという情報を調べ始めた結果、現地の方の協力もあり、それが前浜という場所だということが判明した。


この事故の記録である「和田金右衛門の控え」には、経緯などの記録はされてはいたが、犠牲者がどこに流れ着いたかということについては、神津島に流れ着いたとしか書かれておらず、熊野側からはこの情報にたどり着けず、場所が判明した時は、本当に嬉しかったのを覚えている。
 
ところが、以前に記事にしたような出来事があり、自分が先に現地を訪れることができなかったのは、とても残念に思ったものの、現在制作を進めている動画のこともあり、どちらにしても一度現地に行かなければと考えた。
 
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神津島には港が二つあり、海況が穏やかな時は前浜の隣にある前浜港に定期便が接岸するが、今回の旅ではややうねりがあったためか、反対側に位置する多幸湾側の港に接岸することとなった。
定期便の発着する港は、朝の村内放送で知らされるため、乗船チケットは基本的に当日販売になるようだ。
今回お世話になった旅館「徳左」さんの送迎もあり、スムーズに宿まで移動できたものの、島の中はアップダウンがかなり多く、徒歩の移動は苦労するものと思われる。
 
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前浜という場所は、夏は海水浴場として賑わう砂浜で、島の西側に位置する。
短期間に同じ目的で、二度も太地絡みの訪問者があったことで、おそらくは驚かれたもしれないが、この海難事故は太地という場所にとっては一つの忘れられることのない楔のような出来事だから、今後は訪問者はさらに増えるかもしれないし、願わくばそう願いたいと個人的は思う。
奇しくも串本では「海難1890」が話題になっていることもあるので、次は「鯨分限」を原作として、大背美流れを映像化していただきたいと思う。
この物語を通じて、太地の捕鯨文化と風光明媚な神津島の魅力をアピールできれば、この結びつきはより強く、良い物になると思うからだ。

 
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食事の後、せっかく島に来たので、スクーターを借りて島を一周してみた。
時間があれば、神々が集ったといわれる天上山に登るのも良かったかもしれないが、時間的な余裕と体力的な余裕がなかった。
次に島を訪れる際は、ぜひ山登りをしてみたいと思う。
神津島は西側と東側では表情がかなり異なり、西側は幾つか海水浴場もあるが東側の多くは断崖絶壁で、人気がほとんどない様子。
辛うじて多幸湾から南は道があるが、北の方には行きにくくなっているようだ。
「巨鯨の海」では岩礁が多いと書かれていたが、島の地図を見ると、確かにそんな印象も受ける。
島の南に小型機が発着する空港があり、調布飛行場から直通便があるが、本州までの交通手段は基本的には船である。
夏場は海が穏やかで、船便も多くなるため観光客も多くとても賑わうそうだが、この時期は海が荒れることも多く、定期便が来なくなることも多々あるため、村落の中は静かだった。
次は、この場所の賑わいを見てみたいと思った。
 


神津島にいこうとしたきっかけの一つが、太地の鯨捕りたちが流れ着いたこの前浜から熊野を見てみたいと思ったことだ。
夕方、太陽が水平線に沈む頃、前浜で動画を撮影しながら、当事者がどう感じたかを一生懸命想像したが、TwitterのTweetのように「果てのない遠さに呆然としたのだろう」というあたりの想像以上のことはわからなかった。
それでも、後悔は全く無い。当然わかろうはずなどないからだ。
ここまで来たのも持双船ではなく、文明の利器の新幹線と大型の客船だから、命の危険もなければ飢えることもなく、疲弊することも凍えることのなかった自分に、当時の彼らの感情を想像しようというのは、思い上がりでしかなかったのかもしれない。 

ただ、この場所で熊野のある方角に沈む夕日を眺めながら波の音を聞くことが、この旅の目的一つなのだから、それが実現できたことはとてもありがたいことだ。

思いがけない発見

 
神津島の郷土資料館でスタッフの方に、大背美流れのことが、神津島村史の中の伝説・方言等の項目に記載されており、流れ着いた日付も記載されていた。
また、神津島の図書館で少しだけ調べ物をしたところ、思いがけない情報を見つけることができた。
それは、伊豆の島々と太地は、大背美流れから遡ること86年前に、捕鯨を通してつながる可能性があったということだ。
以前に和歌山県民文化会館で、学芸員の櫻井氏の講演で「神津島松江家所用控」という書物が存在したことを知り、ひょっとしてとは思っていたが、神津島の図書館で読んだ新島の村史に同様の記述があり、新島の役場にはどうやらそれが現存しているらしいということも記されていた。
詳細はあえて書かないことのするが、このことが、伊豆の島々と太地や熊野のつながりをより深くすることにつながればと思い、いつか新島にも行ってみたいと思っている。
 
新島村史には、伊豆諸島での捕鯨業は実現しなかったと記されている。
事情は詳しくは記されていなかったが、一つには鯨という存在への考え方の違いがあったのだろう。
熊野では、鯨は糧であり、捕獲の対象であった。
しかし、新島(もしくは伊豆の島々)では、鯨は糧ではなく別の存在であったということなのだろう。
浦によって鯨への考え方も様々なのだ。
この違いはあるものの、一つ、いや二つの事柄で、神津島と太地は結ばれた。
この縁を、できればお互いの人々に大切にしていただきたいと切に願う。
 

おまけ

 
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神津島で食べたものです。
島の食べ物はとても美味しかったです。
魚は当然美味しかったんですが、個人的には明日葉が気に入りました。
お土産にかった塩辛も海苔も美味しかったです。

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