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太地と神津島の縁に関する報道について

By kujiratalk, 2015年11月15日

※この記事は、当該ニュースの内容に間違いがあるという指摘であり、それ以外の何ものでもありません。
先日、太地町と神津島に関するある出来事が話題になりました。この事は記念すべき出来事で、大変喜ばしいことですが、報道内容に間違いがあるため、指摘しておこうと思います。

※アイキャッチは、神津島の方に頂いた、神津島の前浜の写真です。
 

「大背美流れ」の両端の子孫が、時を超えて出会う

太地町・大背美流れの子孫 神津島へ御礼参り(写真付)
太地から神津島への感謝の旅 3人の死者漂着の新発見(写真付)
2015年11月11日と11月13日に、このような報道がありました。
これは、明治11年の年末に起こった「大背美流れ」という海難事故に関する出来事で、当時その事故に巻き込まれた漁師の子孫と、流れ着いた漁師を助けたり、流れ着いた遺体を埋葬した島民たちの子孫が、137年という長い時間を超えて出会うことになったという報道でした。
 
それまで、太地町では、大背美流れに巻き込まれた漁師たちのうち、生存者八名が島に流れ着いたとうことが、当時の山旦那である和田金右衛門が記した「明治十一年寅年十二月二十四日 旧十二月朔日也背美流れの控へ(以下「金右衛門の控え」)」という記録には記載されていましたが、その事実について確認した形跡はありませんでした。
実際に神津島のどこにたどり着いたのかは、太地町に残っている資料には記載されておらず(事故に関する一次資料が「金右衛門の控え」しかなく、その中にも限られた記述しか残っていなかった)、神津島のどこに流れ着いたかは太地町では把握できてませんでした。
以下、その部分を抜粋します(抜粋した「金右衛門の控え」は「鯨に挑む町 熊野の太地」に掲載されていたものです)。

旧正月元日 (一月)廿二日 雨天 東風吹 今九ツ過三輪崎より鵜殿舟に便舟もらい候て帰り候筋左に。
差水主万喜大夫、一大夫、水主の内弥忽平、竹助、光大夫右三人都合五人。
万喜太夫申出候には私共比大夫舟に弐拾六人乗組にて伊豆七島の内神島近く相成候処にて舟かへし私共五人并角大夫、沢大夫、升次郎都合八人上り(上がは陸に泳ぎ着きし事)他は水死致候との事申し出候角大夫、沢大夫、升次郎の三人は神都島へ残り私共五人は右の注進に参り候、同所より伊豆下田へ迄参り同所より鵜殿村の舟に便舟致帰り候との事申出候。水主の者死左に有之、平作、良平、三助、市兵衛、松蔵、太郎、朝平、常松、千松、芳松、弁大夫、徳右衛門、倉平、谷大夫、同子、佐五郎子、芳兵衛、寅吉、菊兵衛、兵右衛門。
旧二月二十六日 三月十八日 神都島に残り有之候角大夫、沢大夫、升次郎、右三人無事着有之候

このように、正確な場所までは記載されておらず、それ以上のことはわかっていませんでした。
ところが、神津島には、そのことに関する資料が存在し、それが先日、神津島の方の尽力で判明しました。
後は、和歌山放送のニュース記事のような出来事になった次第です。
 

記事の中の間違いについて

さて、この大変喜ばしいニュースについて、残念なことを書かなければなりません。
それは、報道にある、大背美流れについての記載が、正しくない内容で記載されているからです。

太地町は、古式捕鯨発祥の地で、勢子船と呼ばれる小さな木製の船に15人くらいが乗り込み、勢子船10数艘が船団となって鯨を捕獲していましたが、いまから137年前の1878年、明治11年12月24日に、太地町沖に出た船団が、子持ちの背美鯨を見つけました。
鯨の母性愛は強く、子どもを守ろうとする親鯨の抵抗が激しいことから、当時、「背美の子持ちは夢にも視るな」と言われ、漁の対象としないよう徹底されていました。
しかし、その年は不漁だったため、正月を前に、見つけた獲物をとることになり、
漁師は、格闘の末、鯨を捕獲しましたが、港まで持ち帰る力はなく、鯨を逃がしたものの、黒潮に流され、船が転覆するなどして、出漁した200人余りのうち、100人余りが、死んだり行方不明になったりしたとされています。
この遭難事件は大背美流れと呼ばれ、海に投げ出された人のうち8人が、東京の伊豆諸島の一つ、神津島に流れ着き、島民に助けられました。

この記載の下線の部分ですが、この部分は「熊野太地浦捕鯨乃話」という太地五郎作という人物の記した書籍での解釈なのですが、この部分が後年の調査により間違いであることがわかっています。
 
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2014年の12月には、太地町の漂流人記念碑(大背美流れの記憶を留めるための石碑)の解説板も見直され、当該の記述は削除されています。
太地町のウェブサイトについても同様の修正が加えられているのです。(追記を参照)
つまり、この記述は誤りなのですが、それが正しいこととして報道されているのです。
 
大切な出来事にも関わらず、こうした間違いが報道されることは良いこととはいえません。
そして、未だに古い歴史観を語り続けることもまた、これまでのことについても、この先のことについても、いいこととはいえないと感じます。
 
僕個人もまだ、太地のことを調べ始めたところなので、この出来事のありのままを把握できずにいますが、このブログで徐々にこの出来事についてもご紹介できればと思います。

追記

打ち消し線の部分についてですが、この記事を書いた当時(2015/11/15)に太地町のホームページを確認した際、当該ページの内容が、漂流人記念碑同様に、より適切な内容に修正されていると確認して、この記事を書きました。
しかし、その後確認したところ、ページの内容が元の内容に戻されていたようでした。
最初に確認した時に、僕が勘違いしたのかもしれません。
逆に僕の勘違いで済むなら、僕が「僕の勘違いでした。誠に申し訳ありませんでした」と謝罪をすればいいだけの話です。
それで済むのが、一番いいと、僕は感じています。
 
しかし、折角より正しい内容に書きなおされたものが、何らかの事情で元に戻されたのなら、それはとても残念なことですし、何より当時亡くなられた方々が浮かばれないのではないかと感じます。

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