動物解放団体リブの太地町についての検証記事に反証する

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前回の記事で予告していた、ある動物愛護団体の太地町の伝統に関する検証記事を、手元の資料に基づいて反証していく。

伝統や検証という言葉の意味について

今回の記事には、この二つの言葉が深い意味を持つので、まずはその二つの言葉について、コトバンクから引用しておこう。個々の解説が長いので、重要な部分を抜き出しておくことにする。

伝統とは

あるものを他に伝える,または与えることで,一般に思想,芸術,社会的慣習,技術などの人類の文化の様式や態度のうちで,歴史を通じて後代に伝えられ,受継がれていくものをいう。(後略)

https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9D%E7%B5%B1-102607

検証とは

(前略) 一定の理論によって立てられた仮説が具体的に現実に適合するか否かをテストすること。この場合,仮説の限定と観察の客観性が重要である。

https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E8%A8%BC-60664

この二つの言葉の意味を確認したところで、件の検証記事について触れていきたい。

結論として、この検証記事は検証に値するか?

先に結論を述べておきたい。
この検証記事は、検証と呼ぶに値しないものだとしか言いようがない。理由を以下に述べることにする。

客観性がない

記事の冒頭で自分たちの望む結果にフォーカスしており、実際にはどうなのかを調査する努力を放棄している。

事実に即していない

伝統と非伝統の区別の根拠が提示されておらず、実際に太地町の伝統が如何なるものなのかを研究や考察せずに、思い込みによって記事が書かれている。

十分な調査を行っていない。

検証に用いた資料が記されておらず、またどのような調査を行ったかも不明。
何に基づいて検証がなされたかを確認できない。

以上の三点が、僕がこの記事について感じた検証記事としての欠点である。
特に客観性のなさについてはかなり問題を感じており、これが検証記事として許されるなら、ネットの中はデマの温床になってしまうだろう。
僕のブログは時折掲示板などで「所詮は個人ブログの戯言だ」と評されているが、それでもできる限り資料を読み、実際に現地に行き、関係者に事情を聞くなどしてきたつもりである(それでも時には間違えることはある)。
記事として発信するのであれば、それが当然なのではないかと思うからだ。

かつて日本では、鯨を尊重し、殺さない伝統文化もありました。
私たちは、殺さない伝統文化を日本の誇りとしたい。

太地町イルカ追い込み漁・捕鯨 〜伝統と非伝統の検証〜|動物解放団体リブ

その意図だけで事実を捻じ曲げられては、太地の人たちが報われない。
故に、今回このような記事を書くことにした次第だ。

太地町の持つ伝統とは何か

反捕鯨団体や動物愛護団体は、太地町の歩んできた歴史を無視し、捕鯨文化を理解せずに太地という土地の伝統を語ろうとするが、既にこの姿勢が間違っていることに気が付いていない。
以前にもこの件について触れた記事を書いたが、その後、様々な資料を入手したので、改めてこの点に触れてみたい。
先など引用したが、伝統というものは、「歴史を通じて後代に伝えられ,受継がれていくもの」である。
つまり、その場所の歴史を辿る必要があり、その中にこそ、伝統を理解する鍵が隠されている。
それらを探るには、やはり相応の資料を参照するしかないだろう。

六鯨ならざるものの捕鯨

では、その中から小型鯨類に関する捕鯨について見ていこう。

かつて、太地ではザトウクジラ・セミクジラ・コククジラ・マッコウクジラ・ナガスクジラ・カツオクジラ(イワシクジラ)の6種類の鯨を六鯨(「りくげい」もしくは「ろくげい」)と呼び、鯨方という組織で捕鯨をしていた。
それらは個々に捕鯨方法が異なり、いわゆる古式捕鯨の様式(沖合で網に追い込んで絡めとり銛を打つ網取法)は、主にザトウクジラに用いられていたが、他にも網にかけずに銛で突く方法や、網代(あじろ。網を張るのに適した浅瀬)に追い込んで網にかける方法などがあった。
セミクジラの早く泳ぐものは、網代に追い込む方法が用いられたようで、網代に導くために勢子船は船体を砧(きぬた)などの木製の道具で叩いて音を出し、対象の鯨を追っていた。
この「音によって対象を誘導し、適切な場所に追い込む」漁業は、世界中の至る所で行われており、太地でも行われていたので、なおかつ現在の追い込み漁のルーツでもある。(1)

では、六鯨以外は捕獲していなかったのかというと、当然そんなはずもなく、特にゴンドウクジラは太地の人たちに親しまれたクジラで、現在の公式マスコットの「ゴン太」もゴンドウクジラがモデルであり、太地では「ゴンド干し」というゴンドウクジラを用いた干物があり、未だに様々な太地の家庭で作られ、太地の居酒屋でも食べることができ、道の駅や漁協スーパーでも買うこともできる、太地の人たちに根付いた味でもある。
ゴンドウクジラやイルカは、当時描かれた絵巻物にも記載されており、捕獲されていたことは間違いない。(2)

ただし、鯨方が捕鯨を行なったわけではないので、資料に詳しく記載されてはいない。
むしろ、もっと身近で、気軽に捕獲していた形跡すらあり、その一つの例として「夜ゴンド」という言葉がある。
これは、鯨方が盛んな頃、宴会などを催す際に、酒の肴としてゴンドウクジラを捕まえることを言い、夜に数人で銛でゴンドウクジラを突いたそうだ。
もっとも、宴会というものは、当時と現在では意味合いがかなり違い、今より娯楽に乏しい当時では、宴会は貴重な場であろうことは想像に難くない。
しかし、命を賭して鯨を追うわけではなく、あくまで宴の楽しみのために夜ゴンドを行っており、今行われている追い込み漁よりは気軽にゴンドウクジラを獲っていただろう。(3)

ここからは僕の推測にだが、六鯨でもなくゴンドウクジラでもないイルカなどは、さらに気軽に捕獲されていたのではないだろうか。
岸近くを泳いでいたイルカが、漁師の船の舳先が作る波に寄ってきたところを漁師が銛で突いて、夕餉にした可能性もなくはないだろう。
そんな瑣末なことは、恐らく記録には残らないだろう。(4)

多くの人が10年前の今日食べた献立を思い出せないように、日常的であるが故に記録にならない可能性は大きいが、小型鯨類も古くから捕獲されており、食されていたのは間違い無い。

故に、動物愛護団体リブの検証記事は間違いである。
追い込みの形式は昔からあり、小型鯨類も昔から捕獲され食されていた。
記録として乏しいのは、それらはあくまで庶民が行うものだったからなのだ。

  1. 六鯨については元の記述は「熊野太地浦捕鯨乃話」のようだが、今回は「熊野太地浦捕鯨史」及び「鯨とり ―太地の古式捕鯨―」及び「鯨者六鯨ト申候」を参照した。後の二冊は企画展の冊子である。
  2. 「熊野太地浦捕鯨史」には太地の捕鯨の始まりはゴンドウクジラなどの小型鯨類から始まったという記述があり、鯨方崩壊の後に刃刺の富太夫の息子がテント船でゴンドウ漁を行ったとある。少なくとも近年はじまったものではないのは明らかである。
    また、「鯨類絵巻」には、さかまた(シャチ)・いるか・ごんど鯨が描かれている。
  3. 「熊野太地浦捕鯨史」には昭和33年に行われた聞き取りの内容が記されており、その中に「夜ゴンド」の話題がある。
  4. 「熊野太地浦捕鯨史」には「しかし、厳格にいうなら、イルカ科の各種も鯨類のうちだし、またゴンドウ以下の諸イルカは、おそらく古代から捕獲していたであろうから、それを称して、わが国は古代から捕鯨をしていたと唱えても、以上の見地からいうならば間違いではない」とある。

漁業の仕方だけが伝統ではない

マスコミの報道でも時折感じることだが、伝統とはその地域が持つ様々な価値観や考え方、さらにはさらに基づいて行われる様々な行動様式などであり、その一部だけを持ち出して「伝統の〇〇」というのは間違っているように思う。
追い込み漁についていうなら、「太地の伝統が息づく追い込み漁」などと表現した方が良いように思う。

今回の動物愛護団体リブの記事でもそうだが、漁業の仕方や漁具の変化を元に、伝統か否かを論じるのは適切ではないし、それらの事実確認すらまともに行われていないのは、悪質なデマの流布でしかない。
当該記事では1969年に初めて追い込み漁が行われたとあるが、前述の通り追い込み漁というものは特別な手法ではなく普遍的な手法である。
そして捕鯨全般の記録が記載されているわけでもない太地町史でさえ、さらに過去の追い込み漁の記述を見つけることができ、生体販売についても記載されている。(1)

また音を発生する漁具については、伊豆からもたらされたものだということは様々な資料に記されており、僕もいとう漁協の方から直接伺い事実であることは検証済みだが、それについて無許可で導入したような指摘があるが、無知も甚だしいと感じた。(2)

この時点でリブの検証記事が間違いであることは明白だが、更に言うなら漁法というものは、伝統の占めるごく一部でしかないことを思い出してほしい。
再度記載するが、伝統とは「歴史を通じて後代に伝えられ,受継がれていくもの」で、太地の人たちにとってそれは「捕鯨」であり「鯨類の存在」を意識する精神である。
漁法や漁具は、その伝統を構成するパーツの一つでしかない。
更に忘れてはいけないのは、それらは伝播するという事実だ。
太地の歴史を振り返ると、太地の捕鯨は師崎の伝次と堺の伊右衛門が、和田忠兵衛頼元と共に見出したものであり、その後に和田頼治が網掛の技法を生み出して、更に後に更に西方へ受け継がれていったことを知ることができる。(3)

太地の燈明崎近くに金刀比羅神社が勧請された理由も、古式捕鯨が室戸に伝わる過程でもたらされたと思われる。(4)

技術は時とともに進化し、人々の交わりとともにあり方も変化するもので、それらを俯瞰したものこそが伝統とは何がと言えるものだ。船の材質や販売先などは、その僅かな切れ端でしかない。

  1. 「太地町史」にて1933年が記載されている。日本での鯨類の飼育は1930年あたりから始まったようなので、かなり早い部類だろう。
  2. 「イルカを食べちゃだめですか」及び「イルカ漁は残酷か」などに記載あり。当時の話は「イルカのくれた夢 ドルフィンベェイス イルカ物語」にも書かれているが、やや主観が入っている用に思える。
    聞き取りについては2019年4月2日にいとう漁協富戸支所にて行った。
  3. 太地の捕鯨の始まりについては「熊野の太地 鯨に挑む町」や「太地町史」、太地町ホームページなどに記載あり。
  4. 金刀比羅神社の勧請については「太地町史」に記載あり。

エビスへの偏見が捕鯨文化への理解を歪める

冒頭にあった、

かつて日本では、鯨を尊重し、殺さない伝統文化もありました。

太地町イルカ追い込み漁・捕鯨 〜伝統と非伝統の検証〜|動物解放団体リブ

これは恐らくエビス信仰について述べているのだろう。
鯨は時として魚をもたらすものとして、エビスと呼ばれ崇められるが、別の側面として「自らを供して人々を救う」エビスの存在があることを忘れてはならない。
「鯨一頭七浦潤う」という言葉が示す通り、鯨の肉によって潤い救われた浦々があり、その大いなる存在に憐憫や畏怖の気持ちから、特別な存在として扱い鯨塚を建て、場所によっては過去帳に記すほどでもあった。(1)

捕鯨に反対する人たちの中には「単に後ろめたかったからそのようなことをしたのだ」という向きもあるが、その存在を重く受け止めたからこそ後ろめたさを感じたとも言えるだろう。
黒潮で結ばれた和田と太地でも捕鯨の仕方が違い、その中間にある伊豆の島々では捕鯨は行われなかったようだが、黒潮で結ばれた土地の間でさえ鯨との関係性は異なる。(2)

更に場所が異なれば、鯨と人との関係性が異なるのは当然で、どちらの形も尊重することこそが多様性であり、これからの社会が求めるものだろう。
主義主張のために偏見で物事を語るのは、検証の姿勢とは程遠いか感じるのは、僕だけではないだろう。

  1. 「熊野太地浦捕鯨史」には2つのエビスについての記載がなされている。前者のケースとして「東遊雑記」からの引用がある。捕鯨地では後者として扱うことが多いようだ。
    鯨の過去帳や鯨塚などについては各々で検索していただきたい。
  2. 伊豆諸島で捕鯨が行われなかったことについては、以前に神津島に行った際に「新島村史」にて記載を確認。

太地で活動しているのに知ろうとしないのか?

このリブという団体、現在太地町にで活動をしているそうだ。動物愛護団体などが太地町にて活動を始めるたびに思うことだが、せっかく太地に来ているのに、いったい何を見ているのだろうか?
心の目に映る赤い入江にしか焦点が合わないから、太地ほど伝統や文化に溢れた場所にいながらそれを感じられないのだろうか。

南氷洋での捕鯨が伝統ではないと書いてあるが、それは太地が捕鯨と共に歩んだ歴史の一幕として重要な事柄であり、一時期は日本国民を飢えから救った、ある種の自己犠牲が伴うような行いなのに、それすらも理解できないのだろうか?
一度、町内の南極さんを探して話を聞いてみればいい。

その人たちが歩んだ歴史は、太地という場所に住む人たちの伝統の一部であり、そしてそれもまた捕鯨と共に歩んだ歴史の小さな切れ端に過ぎない。
そうした捕鯨に関する様々な事柄を資料として残し、はるか昔の捕鯨の姿を今に残すための施設を町が運営していることこそが、太地という場所の伝統がもたらしたものだ。

伝統を解する気持ちすらないのに、伝統を語るべきではないし、検証を試みる気もないのに検証記事など書くべきではない。

知られるべきマッチポンプ

最後に捕殺方法について書いておきたい。脊髄切断による捕殺方法はフォロー諸島からもたらされたものだが、海面を血液によって汚染されるために太地では捕殺方法を改善してきた。
確かにこれは、鯨類の致死時間を引き伸ばしてしまい動物福祉的にはデメリットがあるが、それをせざるを得ないのは、活動家の撮影に対しての配慮であり、活動家たちが来なければ充分な放血によって致死時間を著しく短縮することができる。(1)

つまり、捕殺される動物を苦しめているのは活動家の存在である。

彼らがいなければ、イルカは苦しまずにすみ、漁業者は安全に作業をすることができるだろう。

つまりこれはマッチポンプなのだ。

ただし、鯨類の血液による海面の汚染は、他の漁業や漁船に悪影響を与えることは時折問題になり、かつて現在の青森県の八戸市で起きた暴動の原因の一つも、捕鯨会社が海面を鯨の血液で汚染し、他の漁業が不漁になってしまったことが挙げられる。(2)

太地でも鯨類の血液によって汚染された海面による不具合はあり、かつて太地湾で追い込み漁は行われており、鯨類の捕殺と漁船の係留が同じような場所で行われていた。
結果、漁船の船底の傷みが著しくなり、現在の畠尻湾に捕殺の場所を移したという経緯がある。(3)

そのことを考えるなら、トータルで考えると現在の捕殺方法もメリットはあるかもしれない。

  1. 太地町漁協サイト内 PDFを参照のこと。
  2. 現地にて2020年9月20日に表示を確認。
  3. 「平成十二年度野外調査実習報告書「太地のひとびと」〜和歌山県太地町調査報告書〜」にて記載あり。

「検証」でなく「お気持ち」なら許されたかも

以上、動物愛護団体リブの検証記事に反証してみたが、如何だっただろうか。
まだいい足りないことは多々あるが、これ以上詳細に記事にしてみたところで、おそらく結果は覆らないだろう。

一つ言えることがあるとするなら、検証と称している以上、調査不足な誤った情報の存在は許されないだろうが、ただの主観で記事を書いたのであれば許されるかもしれない。
動物愛護団体リブの記事の内容は、いわゆる「お気持ち」の範疇を出ることはないものだったが、この記事を信じてしまうような人たちが多いから、この様な質の悪い記事を書く動物愛護団体が存続できてしまうのだろう。

僕は捕鯨問題について考えていく過程で、動物愛護という言葉に懐疑的なスタンスになることが多々あるが、現場で動物のために汗水垂らして活動する人たちのことは尊敬に値するし、自分の生業の傍で、動物のためにできることをするという姿勢は、賞賛されるべきだとも思う。

ただ、社会生活の外側から生業者にハラスメントを行い、嫌がらせやストーキングを「動物のためだ」と嘯くような輩についてはこれからも抗議をしていきたいし、彼らの活動について批判を続けていきたい。

そして、遠く離れた空の下から、太地を応援し続けたい。