伝統を解さない人間による伝統批判は見苦しい

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

先日、エルザ自然保護の会を中心とした数団体が、外国特派員協会で記者会見を開き、太地町の追い込み漁に関する批判を行っているが、そのことについて少し書きたいと思う。

実際の年表と付きあわせてみると

エルザ自然保護の会の辺見栄氏の記者会見についての記事を呼んでいると、様々な違和感を感じる。
特に、この部分だ。

イルカの追い込み漁への批判に対しては、「数百年続いてきた日本の文化、伝統だ」と反発する意見がある。しかし辺見氏は、太地町については、この認識があてはまらないと主張する。
辺見氏は、太地町の歴史が記された「太地町史」という本の記述を根拠にする。「太地町史」では、イルカ追い込み漁が本格的に始まったのが1969年と記されているという。1930年代や1940年代にも追い込み漁はあったが、今のように大規模なものではなかったのだそうだ。
「太地町は1970年、イルカ40頭を水族館に売り、ビジネスが始まった。日本の文化や伝統ではなくて、利益を目的としたビジネスだ」と批判する。

上記の引用部分によると、「太地町史」の中に、イルカ追い込み漁が本格的に始まったのは1969年だと記されているというが、それは本当だろうか?
実は、これは正しくない。太地町史には、イルカ追い込み漁に関する記述は一切ないのだ。

まず、太地町史の1969年に、どんなことが書いてあっただろうか?
手元にある太地町史P949からP950を引用してみよう。

三月一日 太地町原子力発電所設置反対連絡協議会が結成した。
三月三一日 常渡地区公共下水道工事が完成した。
三月三一日 吉野熊野国立公園太地園常渡遊歩道が完成した。
四月一日 長尾綾男小学校校長が退職し、後任として原田芳正校長が就任した。
四月二日 くじらの博物館の開会式を挙行した。
四月二一日 常陸宮御夫妻御来町し、くじらの博物館を観覧された。
五月一五日 太地町文化財審議委員会が発足した。
七月二二日 ゴンドウ三五頭湾内追い込み、うち一七頭を博物館に搬入した。つづいて七月二七日、ゴンドウ四六頭を追い込みうち一五頭を博物館へ搬入した。
八月一、二、三日にわたり常渡畑尻湾において古式捕鯨及び近代捕鯨を一般に公開した。
八月三日 じん芥処理自動三輪車を購入した。
八月三日 町長及び町議会議員選挙を行った。
九月八日 白浜リュウビンタイを町の天然記念物として指定した。
一一月四日 町内清掃業務(じん芥処理)を民間に依頼した。
一二月六日 遠藤幸雄氏(オリンピック体操ゴールドメダリスト)を招へいして体育講演及び体育の実技の公演を行った。
一二月一六日 隣接地原子力発電所設置反対特別委員会が発足した。

さて、1969年にあったことを年表から引用してみた。
最初と最後に反原発運動に関する興味深い記述があるが、それについて言及するのは別の機会に譲るとして、この中で7/22のところにゴンドウクジラの追い込みに関する記録がある。
しかし「本格的に始まった」という記載はない。
ゴンドウクジラは、小型鯨類に含まれるが太地という場所では非常に好まれ、当時の町長であった庄司五郎氏が、博物館への生体展示のために直々に捕獲を依頼したとされている。
それらの事情はいくつかの資料を突き合わせてわかってくることで、この年表には捕獲の記録があるだけだ。
そういったいくつかの資料から、「博物館への生体展示が目的で、追い込み漁が始まった」というストーリーを編んだのだろうが、では、どうして町長は漁師達に追い込みを依頼したのだろうか?
それは、追い込めることを知っていたからで、過去にも行われていたからでしかないわけだ。
過去に行われていたことである以上、新たに始めたという意識も当然ないわけで、結果として漁獲の記録のみが記載されているのだろう。
 

都合のいい部分だけを利用する反捕鯨団体

実はこの太地町史という資料は、完全な資料ではない。
こと漁獲に関する記録に関しては、どうも欠落している部分がかなりあるようで、例えば町史には記録されていない漁獲が、のちの発行された「くじらの町太地 今昔写真集」に写真で記載があるなど、この資料だけでは正確かどうかが判断が難しいところもあるのだ。
それは追い込み漁にかぎらず、例えば前田式捕鯨銃を用いたゴンドウクジラ漁でも、捕獲実績は断片的にしか記載がなく、追い込み漁でも使われていたテント船が、本来のゴンドウクジラ漁でどれだけの実績を出していたかが残念ながら分からない。
興味深いエピソードを知る良い資料ではあるが、これだけでは当時の漁業の実態を完全に把握するのは難しい。
また、町史に記載されている追い込みの記録についてだが、同時に生体販売についても記載されており、つまり1969年以前にもゴンドウクジラの生体販売については行われていたことも、無視してはいけないだろう。

また、太地町史の中に「イルカ追い込み漁」という言葉は記載されていない。
何故なら、そもそもこの追い込み漁という手法自体は、イルカに限定されるものではないからだ。
以前にこのブログでも、現在の追い込み漁と古式捕鯨の共通のポイントについて記載したが、音を立てて鯨類を追い込み始めたのは、古式捕鯨にその起源があるのは明らかだ。
実際に、イルカにとどまらず、ゴンドウクジラやシャチを追い込んでいることを、忘れてはいけない。
つまり、太地町の中では追い込み漁をイルカ追い込み漁とは呼ばず、イルカという名称にこだわって、事実を歪めているのは反捕鯨団体の側だということになる。
 

寄せ物と山見の存在

実は他にも類似点があったようだ。それは、山見の存在である。
山見というのは、古式捕鯨の頃に、鯨の回遊を確認するための見張り台があった場所で、太地では主に燈明崎や梶取崎にあったとされるものが有名だ。
これが古式捕鯨の衰退以降には、湾に寄せてきた様々な魚の群れ(当然ゴンドウクジラも含む)を見つけるために機能していたようで、この網を使った漁と同様にゴンドウの追い込み漁も、最終的には網で湾を仕切り、適当な岸に水揚げすることになる。
つまり、最初の発見は、山見の仕事になる可能性が十分にあり、初期の古式捕鯨に類似している部分だといえる。
現在の追い込み漁では山見を使うことはないが、その代わり沖に出て船から鯨を探す方法をとっており、これは古式捕鯨後期の「沖待ち」に通ずるところがあるだろう。
その山身だが、太地湾の傍にあった子安が谷と呼ばれた場所に山見があり、そこで魚の群れや鯨の回遊を見張っていたという記録がある。
山見で見つけられた群れは、網によって捕獲されるわけだが、反捕鯨団体は1933年の追い込みの記録ばかりに注目するが、実はこの山見によって見つかった61頭のゴンドウクジラの群れが、明治32年にあったことが太地町史に記録されている。
山見についての記述は、実は彼らが証拠として指摘している記述のあるP494~P495の前のP493に書かれているわけだが、こうした漁業の技術的なつながりには興味がはないようが、そのような人間が貴重な資料を持っていても全く意味を成さないだろう。
 

伝統を考察しないものは、伝統の批判をしたがる?

以上、追い込み漁について、手元の太地町史からわかることを書いてみた。
以前にこちらの記事でも書いたが、こうした団体や活動家が、その地域の伝統に難癖をつけるときは、大体の場合は大した考察もなく批判をしている場合が多い。
今回の批判にしても、「追い込み漁は伊豆から伝わった技術だ」という嘘を見ぬかれて、こうした主張をしているのだろう。
また、今回の記者会見では「追い込み漁自体が残酷だ」と主張していますが、これも非常におかしな主張で、今までさんざん血まみれの海水の写真を用いて、または「日本のイルカ猟」というDVDにもあるように、捕殺シーンをクローズアップして残酷であると主張しているような団体が、捕殺方法の改善で血液による海水の汚染が微々たるものになると、水銀の問題や伝統の問題にすり替えて批判し、そして今度は「追い込み漁自体の残酷さ」を主張してきたのだ。

このように、伝統を解しようと思わない人間のする伝統批判ほど、見苦しい物はありません。
反対のための証拠作りのための資料に、町の貴重な資料をいい加減に扱うような人たちに、伝統を語る資格はないと、個人的には思います。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る