追い込み漁の起源は一体どこにあるのか?

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先日、太地町役場から太地町のPR用に作成したらしいDVDを取り寄せて鑑賞していた時、ある動作が現在の追い込み漁に通ずるだろうとのではないかと、改めて思った。
以前からそうだろうと感じていて、いくつかの確認をしたり、資料をあたっていく中で、そうではないかと思ってはいたが、その思いは更に強くなった。

追い込み漁とはなにか?

まず、一つ確認しておくことがある。
それは、太地町で行われている9月から翌年3月までの漁業の名前は、イルカ猟ではなく、追い込み漁だということだ。
なぜならこの呼称は漁業の手法の名前であり、捕獲対象はイルカにかぎらずハナゴンドウやコビレゴンドウなどの小型の鯨も含まれるからだ。
イルカ猟と記述するのであれば、沖縄のパチンコ漁業や三陸などで行われる突きん棒漁業も含まれるわけで、太地町独特の漁業ではない。
一方、小型鯨類を対象とした追い込み漁は、以前が行われていた伊豆の富戸でも、様々な事情で休漁の憂き目に遭っている状況だから、現在は太地でのみ行われている。
故に、呼称として正しいのは追い込み漁というわけだ。
後ほどこの辺りに関する話を書く予定だが、まずは僕の気づいたことを書いていくことにしたい。

叩いて音を出すという行為の類似

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これは、冒頭で触れたDVDの動画から、古式捕鯨(網掛突捕式)の再現シーンのスクリーンショットだ。
内容を順を追って説明しよう


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鯨の噴気(ケ)などを山見(鯨の到来を監視する場所)が見つけると、すぐに浜に知らされて、勢子船などの鯨船が海に漕ぎ出し、鯨を網へと追い込むために鯨の後方に回り込もうとする。


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遠くからでもどの船かが判別できるように、鯨船は様々な色彩の塗装をされており、多くの水夫(カコ)を載せて、一節によれば汽船を追い越すとさえ言われるほど猛烈な速度で鯨を追う。


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勢子船(鯨を追い込んだり、鯨に銛などを投擲する船)が鯨を包囲して、前方に仕掛けられた網に誘導する。


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しかし、鯨が思うように進んでくれるはずもないので、進路がずれ始めた時は……。


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木槌のようなもので、船底(別の資料では船べり)を叩くことで音を出します。


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その音を嫌った鯨が、その音源から離れるように泳ごうとするため、左右を勢子船で囲んで音を出すことで、その音から逃れるように鯨は前へ泳ごうとする。


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そして、鯨は無事に網へと追い込まれる……


このように、音によって鯨を制御し、目的地へ追い込むというスタイルが、いわゆる古式捕鯨の時代からあったものなのだが、実は現在の追い込み漁と、やっていることはほぼ同じ(鯨種が小型鯨類に、目的地が網代に張った網ではなく、狭い入り江に変わっただけ)である。
ただ、組織がより小さなものになったために、簡略化せざるを得なくなり、その結果、網の使い方や追い込む場所が変化したと考えると、かなりわかりやすいと思う。
確かに現在の追い込み漁は1969年より後(これについては正確な時期が不明なので現在調査中)で、その頃に培った形が、現在の追い込み漁の形に最も近いかもしれないが、実際は古式捕鯨の時代には形としては完成しており、それが必要に応じて変化したものだと考えたほうが、事実に近いだろう。

実はルーツは太地にあった?

反捕鯨団体の主張では、太地町の追い込み漁は、1969年に開館した町立くじらの博物館に生体展示するゴンドウクジラを捕獲するために、先に追い込み漁を始めていた伊豆に支援を要請して、その伊豆の漁師たちによってもたらされたものだとしている。
この主張に関しては、元漁師の石井氏も「我々の先輩が太地に追い込み漁を教えた」というような発言をしており、それもあって「太地の追い込み漁は伝統などではない!」という活動家は非常に多い。
しかし、別の主張もある。
Facebook経由でお知り合いになった、いとう漁協の方から、貴重な話をお聞きすることができた。
要約すると、「我々漁師は海の状況がわからない場所で、その土地の人に漁を教えることなどできない。確かに伊豆と太地で、追い込み漁に関する交流はあったが、漁を教えたのではなく、伊豆の技術(道具の作り方や使い方、そして操船の技術)などを伝えたということです」ということだ。
実際、1969年以前に追い込み漁をしていた記録もあり、写真も残っている。
すでに存在するものを、どうして教わらなければいけないのだろうか?

IWCは認めても、反捕鯨団体は認めたくない事実

以前にこちらのまとめでも指摘したことだが、IWCのレポートにさえ、このような記述がある。

The people of Taiji have exploited and whales since the early 17th century using hand-harpoons, the net-whaling technique, shot guns and purse seines.
The oldest records of dolphin driving are from 1933.
These have been followed by additional opportunistic operations.

「一番古いイルカの追い込み漁の記録は1933年だ」と、IWCのレポートにすら書かれているのです。
また、太地町史のP494には昭和8年にゴンドウクジラの捕獲が記録されており、IWCの記述を図らずしも裏付ける形になっている。
ちなみに「解体新書「捕鯨論争」」の第四章を書かれた方が、こんなことをツイートしていますが、ページ数が間違っており、さらに追い込みという手法に関する記録を何故かイルカ限定だと解釈するのも奇妙な話である。
そもそも、1969年当時、生体展示を希望していたのはゴンドウクジラであり、それを追い込むための追い込み漁のはずなのだが、なぜイルカという言葉にこだわるのか理解できない。
この記録でさえ完全なものではなく、町史の記録以外にも追い込み漁は行われており、その光景が「くじらの町太地 今昔写真集」という写真集に収められている(116ページ)。
さらに言えば明治27年頃に、古式捕鯨のような網取式の捕獲法をゴンドウなどに応用する研究をしていた漁野富大夫という羽刺がいたという記録もあり(町史460ページ。この方の研究は完成せず、残念ながら受け継がれることはなかったようだ)、そういった志向で漁をしようとした人間がゼロではなかったことも裏付けられる。

ところが、こういった事実を反捕鯨団体や動物愛護団体は認めようとしない。
そればかりか、実際に何時、そのような経緯で伝わったかという正確な記録すらない(これに関しては太地町側の資料では見当たらなかった。機会があれば伊豆の方で調査をしてみたい)「伊豆から追い込み漁を教わるまでは追い込み漁はなかった」という主張を繰り返すのみである。
こういった都合の悪いことは、認めたくないのだろう。

イルカ猟と認識しているのは反捕鯨団体だけ

以上、古式捕鯨と追い込み漁の類似点に始まり、1969年以前の追い込み漁について少し触れてみたが、先程も書いたが追い込み漁というのは漁業の形であり、追い込む対象がなんであれ、追い込み漁であることに変わりはない。
元々のアイデア自体は古くからあり、漁師たちはそれを知っていたことは、太地町立くじらの博物館にも記述があり、また関口雄祐氏の「イルカを食べちゃだめですか?」の114ページにも、当時の漁師の証言として記載されている。
つまり、太地町の追い込み漁の起源は、やはり太地町にあったわけだ。
ところが、何故かそれをイルカのみに用いられるものだと勘違い(いや、意図的にそう思い込んでいるのか?)している人たちが追い込み漁に反対する人たちには多く、そういった層の人達にとって受け入れやすかったのが1969年起源説なのではないかと、僕は思うわけだ。

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