結局「イルカ漁は残酷か」はどのような本だったのか?

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ここ最近、「イルカ漁は残酷か」という本について何度か思うところを書かせていただいた。
まだまだ検証すべき点はたくさんあるだろうし、インタビューを受けた方々に聞き取りをし続ければ、さらに奇妙な点は出てくるのではないかと思う。
しかし、正直読まなければいけない本や、しなければならないことは沢山あり、時間というものは有限であるため、今回の記事で一区切りとさせていただこうかと思う。

地域の主義主張を軽く見ている

著者の伴野氏については、いとう漁協でお話を伺った際や、太地町立くじらの博物館の関係者から話を伺った際に受けた印象を総合すると、「地方、特に田舎の価値を軽く見ている」ような気がしてなからなかった。
以前の記事でも書いたことだが、恐らく「こんな田舎の細かい部分の話なんて、誰も真剣に扱いはしないだろう」という意識があったのだろうが、地方だろうが大都市だろうが、扱われた当事者にとってみれば大変なことで、だからこそ取材を受け、自分たちの立場を説明したはずである。
しかし、いざ本が出版されたら、言った覚えのないことや、著しく印象を損なうようなことが書かれていたとなれば、当事者は当然傷つくだろう。

彼ら漁師は、海の生き物を日々大量に屠殺するのが仕事なのだ。そして彼らは強烈な矜持を持っている。誰のお陰で食卓に魚が上がっていると思っているのだ、漁師が獲った魚を喜んで食べておきながら、よく俺たちを非人道的などと非難できるな、と。

イルカ漁は残酷か p.259

著者である伴野氏は「屠殺」という言葉を常用する傾向があるが、漁業で「屠殺」という言葉を用いるのは何かの印象操作のようにも思える。蓄養する場合もあるだろうが、漁業は基本的に魚を捕まえることから始まる以上、まるで家畜のを屠るような具合には行かないはずだ(むしろ漁師の仕事はそこが中心ではないだろうか?)。
ところが、どうしたわけ伴野氏は、その「捕まえること」についてを「無かったこと」にする。日吉さんが「この漁は難しいんですよ。(p.36)」と追い込み漁を残したいと思う気持ちを語っている部分が本著にはある。漁業というのは「魚と人との知恵比べ」的な側面があるのだが、そうした生業について伴野氏は軽く見ているのだろう。だから「捕殺」ではなく「屠殺」と書くのではないだろうか?

また、僕はこれまで何人か漁業に携わっている方にお会いしたが、「誰のお陰で食卓に魚が上がっていると思っているのだ」などと語るような傲慢な人物は一人としていなかった。それどころか、太地で「ヨラリ(クロシビカマス)の背越し」を食べた話をSNSに書いたら「太地の魚を食べてくれてありがとう」と感謝されることさえあった。
故に僕は、「どうせ、漁師たちのことなんて、誰も気にも留めないだろう。ザ・コーヴでもちょうどいい悪役みたいに扱われていることだから、この程度のことを書いたとしても抗議されることはないだろう」と、自分の中の漁師像を投影して書いてしまったとしか思えない。

エスノセントリズムは正義なのか?

「漁師は傲慢で残酷な人間なのだ」と読者に印象付けた伴野氏は、田舎の(ローカルな)価値観を軽く見る傾向がある本著の本音が垣間見える一文がある。
第四章で当時の朝日新聞の編纂委員だった本多勝一が書いた壱岐イルカ事件の検証記事の結論部分の引用の後に、

ケイトらの行動の背景にアメリカ覇権主義があるとするなら、この反論の底流にあるのは、グローバリズムとは対極のローカリズムであり狭量な島国根性である。

イルカ漁は残酷か p.128

まず、この問題をグローバリズムとローカリズムの対立という視点に置き換えるのは間違いだと思う。捕鯨問題も追い込み漁の問題も、全世界が反対をしている訳でもなく、一部の国々の一部の声の大きな人たちが反対しているだけであり、例えば追い込み漁に反対の声をあげたケネディー前駐日大使の前に着任されていたルース元駐日大使はあくまで客観的な立場で「皆さんの意見を聞きたい」と問いかけた。アメリカ人にも様々な考え方があり、全員が疑いなく捕鯨や追い込み漁に反対している訳ではない。
ケネディー前駐日大使も、実際には「反対声明を出さざるを得なかった」感もあり、ある意味被害者だと僕は思っているが、彼女をけしかけたのはアニマルライツ系の活動家や一部の反対派であったことは個人的な調査から確認している。彼女自身もまた、その当時までは個人的な意見を有してはいなかったのではないだろうか?
ともかく、この問題は世界と日本(の地方)の対立という二項対立の問題ではない。元の本田勝一の記事自体も間違いではあるが、そこからさらに自著に都合ががいい二項対立の図式を構築するのはおかしくないだろうか。

そして、島国根性という言葉にも注目していただきたい。
さらには狭量なと強調されている「ちっちゃな自尊心」とでも言いたげな表現は、ケイト達活動家の「エスノセントリズム」を正当化しているように思える。
著者の伴野氏にとっては、活動家の持っているアニマルライツ的主張こそが正義であり、壱岐の漁師達の存在など爪の先ほどの価値観もないのだとでも言わんばかりだ。
しかし、実際はグローバリズム対ローカリズムというよりも、エスノセントリズムによる価値観の侵略行為こそが、この諍いの本質なのではないだろうか。
漁師には漁師の生活がある。それを妨げる者に対して抗議の声をあげるのは当然で、狭量な島国根性などでは決してない。

あとがきに見える著者の立ち位置

さて、とりあえず「イルカ漁は残酷か」については、一旦区切りをつけよう。
おそらく歴史的な資料部分に関しても、調べていけばツッコミどころは出てくるかもしれないが、とりあえずはここまでにしたい。
ただ、個人的には、「あとがき代えて」の部分について、最後に触れておきたい。
いとう漁協やその関係者、そして太地の漁協や鯨の博物館関係者など、取材に応じた人たちへの、形ばかりの謝辞が書かれたあと、JAZA前会長と現会長、鴨川シーワールドの広報企画課の方など謝辞がはいり、そのあと粕谷俊雄、辺見栄、リックオバリー、シーシェパードのデヴィッド・ハンスという順番で謝辞が書かれているのだが、漁業関係者およびくじらの博物館関係者にはあくまで事務的に謝辞を述べているのに対し、粕谷俊雄や辺見栄への謝辞が非常に丁寧で、

今もフィールド活動の精神を失わず、シエラデザインのマウンテンパーカ姿で取材に応じてくださった粕谷俊雄氏は、小型鯨類の資源管理に正面から向き合おうとしないこの国の水産行政に対する幻滅からかいくらか厭世的なご様子でしたが、お話しくださった貴重な内容もさることながら、六四〇ページいにもおよぶ大著「イルカ − 小型鯨類の保全生物学」は日本のイルカ問題を考える上で貴重な資料の塊です。粕谷俊雄氏はこの大著の英訳に取り組んでおられ、完成の暁には、日本のイルカ漁問題に対する世界の理解は飛躍的に深まることでしょう。

イルカ漁は残酷か p.273-274

私の取材要請に快諾してくださったエルザ自然保護の会の代表辺見栄氏は、日本のイルカ漁問題に最も古くから取り組んできた活動家の一人です。彼女は二〇一三年一一月三〇日付でいち早くWAZAに誓願書を送り、当時イルカ漁問題について腰が引けていたジェラルド・ディック専務理事に「太地のイルカ漁は一九六九年に始まったもので伝統でも文化でもない」と重ねて手紙で説明しました。活動家の視点に立てば、辺見氏はJAZA資格停止処分の陰の立て役者だったと言えると思います。

イルカ漁は残酷か p.274

と、かなり丁寧な扱いをしていることからも、本著の性格を物語っているように思える。さらに丁寧(?)なのは、公安警察へのイヤミとも取れるもの。
引用するのも少々馬鹿馬鹿しいと感じたので引用しないが、この辺りの非常識さも著者の性格からくるものなのだろう。
2015年の漁期だろうがいつだろうが、怪しげな人物には声を掛けるだろうし、何度も顔を合わせていればそのうち声もかけなくなる。活動家が跋扈している状況で、その活動家にくっついて歩いておきながら、公安への恨み節とも取れる文章は、なんというか大人気ないと感じた。

結局、本著のスタンスを一番色濃く反映しているのは、この「あとがきに代えて」の部分だった気がする。
もし今後、この本著を読もうとしている方がいらっしゃるなら、ぜひあとがきを最初に読んでいただきたい。
そうすれば、僕のように、何度も読み返してツッコミを入れるような手間をかけなくても、どんな書籍なのかを数分で判断できるからだ。

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