先鋭的な動物愛護や反捕鯨、そして環境保護の活動家は、社会の道理を超越した活動をする傾向がある。
その理由について少し考えてみたいと思う。
理解し難いロジック
過激な動物愛護活動家や、反捕鯨活動家に代表される先鋭的な環境左派の、活動や発言が、その他の多くの人たちが理解できず、かえって批判を集めてしまうような事柄が多くなってきたように感じる。
しかし、実はそういった問題は、僕が知る以前から当然のように存在し、時折周囲との摩擦を起こしてきたのだろうと考えると、彼らが今行なっていることは、その繰り返しにすぎないとも思える。
では、どうして彼らは同じようなことを繰り返すのだろうか?
繰り返した先に何があるのか?
そういったことを考えようとする人は、それほど多くはないのではないかと思う。
そこで、今回は自分なりに彼らの考え方や何が指針であるかについて、考えてみようと思う。
「正義は我にあり。故に法を破る」
そういった活動の参考になる身近なサンプルとして、今回注目してみたのは、Twitter上で動物愛護活動を行なっているベジタリアン・ケイ氏(@vegetarian_kei)の活動内容についてだ。
彼の活動は、Twitter上で様々な問題を起こしており、多くのユーザーから批難されているが、彼はその活動を止めることはない。
それどころか、彼の活動を眺めている人は、その内容はどんどんエスカレートしているように思えるだろう。
単なる肉食や動物実験への批判が、やがて肉食をする人を攻撃し始め、それで一度アカウントがサスペンドされると、一度はおとなしくなるものの、次は芸能人の名前と写真を無断で借用して、肉食や動物実験を批判するツイートを続けるようになった。
単にツイッター上のルールを逸脱しただけではなく、肖像権の侵害やタレントや政治家のイメージを著しく損なう活動を、平然と行なっている感覚は、他のユーザーからは理解出来ないだろう。
これは個人的な感想だが、Twitter上で活動する動物愛護活動家は、先鋭化する傾向が強く、YouTubeにアップロードされている刺激の強い動画や、ヘルプアニマルズなどのサイトの凄惨な画像のリンク付きのリプライを、毛皮や肉食についてのツイートへの反応として送り返すこともある。
そういった活動家達は、肉食をする人間や動物実験、そして毛皮産業を激しく憎み、そういったことに足を踏み入れる人がいないように、常に布教を続けているようで、まるで出来の悪い弟子に教えを説くようにそれらの害を語り続けるのだ。
彼らは常に自分の中に真実があり、正しいのは自分であり、だからたとえ法を犯そうが自分の方法で物事を解決できると強く信じている。
その活動は、彼らにとっては「聖戦」なのかも知れない。
「自分たちの活動が世の中をよく出来ると信じている」
実は、先ほど例にだしたTwitterの事例はそれ程特異な例では無いようで、例えばALF(動物解放戦線)の活動のように、法の枠を超えた方法で自分たちが解決するべき問題を処理しようとする人は、他にも存在するという事実がある。
捕鯨問題ではシー・シェパードの活動がIWCでも問題とされた。
極限の環境下で行われる妨害活動に経験がほとんど無いボランティアを動員し、劇薬である酪酸を投擲するなどの攻撃行為を、彼らは正当化するために様々な広報活動を行うが、どの様に報じようが結局のところは危険かつ重大な犯罪行為であり、当然批判も多いことは、多くの人が知っていることだ。
しかし、彼らにとっては、周囲の評価は関係なく、どの様に注目を集め、寄付金を募り、活動を続けていくかということのほうが重要なのだ。
何故なら、彼らもまた「自分たちの正義を執行するために、活動を続ける必要がある」と考えているからで、こういった考え方は、先鋭的な活動家に共通して見られる特徴のようだ。
彼らの多くは無神論者もしくは不可知論者であり、信仰こそ持たないものの、「自分たちの行いは正しく、世の中をよく出来る」と信じている人が多いという話が、「ぼくらはそれでも肉を食う」で記されており、非常に興味深い。
信仰を持っていなくても、何かに教え導かれるように、自分たちの「掟」に従い、「世の中を良くするため」の「聖戦」を日夜続けている彼らは、従来の神の概念とは異なるものの、自分たちの感情や思念が新しい「神」を作っているのではないかとも思える。
これはもう、ひとつの宗教なのかも知れない
「正義であれば罪も正当化される」のか?
では、どうして彼らの活動は過激な方法になっていくのだろうか?
それは、活動の基本となる「市民的不服従」という考え方が、活動を行ううちに、いつの間にか拡大解釈されるようになり、非暴力というコンセプトが軽視されることが多くなっていくからではないだろうか?
自分の善意が伝わらず、誰にも振り向かれることなく時は経ち、次第に焦りも出てくることだろう。
そのジレンマの中で活動家はやがて過激な活動を行うようになり、周囲の考えを無視して「自分の正しさ」を相手に訴えるようになる。
そうなるのも当然で、Yahoo!掲示板で約10年も活動しているネット活動家が、何ら結果を残せていないのと同様に、そういった活動が簡単に結果が出せることなど無いのが当たり前なのだ。
その中でも地道に活動を行なっている真っ当な保護団体の方々がいて、その人達の苦しみの上に、多くの結果が積み上げられるわけで、長期的なスパンで考えれば、先鋭的な活動が身を結ぶことは、本来は多くはないだろう。
ところが最近では、こういった過激な環境保護活動のコンテンツ化が成功し、危険な活動を正当化してでも行いたい理由にもなっているのではないだろうか?
例えば、和歌山県の太地町に常駐しているコーブガーディアンの活動は、自分たちが繰り広げる活動をアピールするための活動になってしまっている感もあり、すでにイルカ漁へのプロテストという目的が感じられなくなってきているように思える。
先日の暴行事件でメンバーが逮捕されたことで、若干衆目を集めることはできたかも知れないが、和歌山県警が太地町で警備をする限りは、彼らの活動は衰退化していくだろう。
こういった活動は注目されているうちに、どれだけ多くのことが出来るかがポイントのようにも思える。
シー・シェパードに関していえば、捕鯨国であるノルウェーやアザラシ猟を行うカナダでの活動を縮小方向に持っていかざるを得なかったのは、彼らの活動が注目される前にしっかりと対策を施した成果であり、こういった前例を研究して来なかった日本は、非常に痛い思いをすることとなった。
これらの先鋭的な団体や活動家に接することがあるなら、是非覚えておいていただきたい。
これは一種の宗教であり、自分たちの価値観とは相容れない可能性があることを。
理解し合えないことをお互いが理解していれば、時間を浪費することはない。
……するべきことは、自ずと見えてくるのではないだろうか?