かつて行われていた師崎の捕鯨

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

先日、師崎までドライブをした際に、ふとある動画のことを思い出しました。
それは2015年頃に制作された南知多町の歴史に関するもので、捕鯨について扱われている部分があると、以前に伺ったことがあるのです。
今回は、その動画についての話です。

太地よりも先に始められた捕鯨

まずは、その動画を御覧いただきたい。
全体だと30分ほどの長い動画になるので、下の埋め込みでは、捕鯨に関する話になる後半の部分から再生できるように設定してある。

こちらの動画は、愛知県南知多町文化遺産保存活用実行委員会によって企画されたもので、僕がこの動画について知ったのは、冒頭の写真の太地亮氏のFacebookの記事を拝見して、問い合わせをしたのがきっかけだった。

確か一度問い合わせて、当初はDVDに保存されたものを貸し出していたように思ったが、昨日問い合わせたところ、YouTubeにて公開されているとのこと。
是非見ておきたいものだったので、早速視聴させていただいた。

捕鯨についての話を大まかにまとめると、以下のような内容である。

織田信長が家臣に送った手紙についての話から始まり、紀州に渡った鯨漁師の伝次の話題へとつながっていく。和田忠兵衛頼元が堺の伊右衛門と師崎の伝次を呼び寄せ、大規模な捕鯨の計画を立てた。これがいわゆる「古式捕鯨」の始まりだとされている。
それまでの小規模の捕鯨とは違い、大規模な捕鯨は鯨を取り逃がせば大きな損失を生む(使用する銛の数も100本以上になり、取り逃がせばその銛も失うそうだ)ため、財力も必要になった。
紀州の豪族であり資金力のあった和田家と、伊右衛門が担う流通、そして伝次によってもたらされた技術によって、この大規模な捕鯨業は結実することになる。
その後、太地角右衛門頼治が「網掛突捕捕鯨法」を見出し、事業は発展していくことになる。

他にも、「慶長見聞集」という江戸の生活や世相について記した書物の中にも、南知多の領主が捕鯨を行っていたということがわかる記述がある。
文禄の頃に、尾州の間瀬助兵衛という人物が関東の三浦にやってきて始めた捕鯨を、漁師たちが見習って始めたという記述がある。間瀬という名字は知多半島に多い苗字であり、知多の人間である可能性が高く、故に、それらの捕鯨よりも早い時期に、知多半島では捕鯨は始められていた可能性も高い。
それを裏付けるように、「西海鯨鯢記」にも三河の国の内海の人たちが7〜8艘の船で師崎周辺で突き捕りを行っていたという記述もある。
その後徳川の世になり、戦国時代から水軍として活躍していた千賀家が知多半島の先端地域を治め、地域の発展に貢献した。
千賀家は様々な漁業の振興を行ってきたが、その中には捕鯨業もあり、主に船団による突き捕りで捕獲をしていたようだ。その様子は、「張州雑志」という書物の中に記されている。
知多には鯨にちなんだ地名もあり、捕鯨とは浅からぬ縁があるのだろう。

太地の捕鯨は後に西へと伝わっていったが、そのルーツはどうやら愛知県にあったことということになる。
この話自体は、様々な資料からも知ってはいたが、太地のことばかりに気持が行っていたせいもあり、完全に失念していた。

伝次が太地に来た理由は?

太地町のホームページでも、この人物に関する記述は見て取れる。

太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。

http://www.town.taiji.wakayama.jp/kankou/sub_01.html

伝次にしても、間瀬助兵衛にしても、技術を誰かに伝えられるような力量を持っていたのであれば、恐らくはすぐれた鯨漁師だったのであろう。
どのような人物であったかは想像になってしまうのだが、以前に見つけた小説は、その雰囲気をうまく伝えているのではないかと思うので、ちょっと紹介したい。

尾張国師崎の漁師の伝次は、三挺艪で漕ぎ進む小船の舳先で、まるで船に釘付けになったように揺れにも微動だにせず、銛をかまえて立っていた。

三挺の艪を折れんばかりに漕ぐ三人の男は、褌ひとつの裸体だが、銛をもつ伝次の姿は異様なものだった。

潮褪せたドンザ〈刺子には右袖がない。左袖は女着物のような長袖になっており、伝次は無言でその左袖を振って、船の進路をさししめしている。

http://ninomiyatakao.com/hazashi-no-denji.html

刃刺(はざし)の伝次」という小説からの引用だが、恐らくは経験も豊富で腕の立つ漁師だったのではないかと思う。

では、なぜそのような人物が師崎を後にして別の浦を目指したのだろう?
一つ仮説を立てるとするなら、鯨類資源の枯渇があったのではないかと思う。
「熊野の太地 鯨に挑む町」の巻末にある年表に、気になる記述があった。

一五九二(文禄元、後陽成)

〜 中略 〜

このころ尾張の鯨突き間瀬助兵衛相模国三浦にて銛網による捕鯨業を営み、好漁を収めたので、地方の浦々の者も見習い、はじめのほどは年に一〇〇、二〇〇頭も捕獲したが、二〇数年後には捕り尽くして、わずかに年四、五頭しか捕れぬようになったので衰微したという。

〜 後略 〜

「熊野の太地 鯨に挑む町」のP.186より

当時は比較的岸から近い場所を泳ぐ、コククジラやセミクジラなどが捕獲の中心になっていたと思われるが、これらの鯨種は捕鯨の始まった場所では初期に資源量が乏しくなってしまうものなので、現在でも資源量は少ない。
網捕式の捕鯨は、更に多くの鯨種の捕獲を可能にするため、末永く捕鯨を続けることができたが、突き捕りを続けていくと、対象が限定されるため、こうした資源量の低下による捕鯨の衰退は考えられる。

数年前に、三河湾でコククジラを目撃したというニュースが話題になったが、過去に捕鯨地であったが故にも、コククジラの回遊の目撃は大きな喜びもあったのかもしれない。

古きを知って未来のことを考える

今でこそ師崎では捕鯨は行われておらず、先日ふらりとドライブした時は静かな漁村という印象しかなかったが、その昔は様々な漁業で栄え、すぐれた人材が大切な技術を伝えるために生命を賭して旅をしたことになる。
そして、その結果がもたらしたのは、様々な鯨文化や鯨食の文化であり、さらにはその延長線上には戦後の華々しい捕鯨業があったのではないかと考えると、師崎の捕鯨の存在はとても大きいように思える。

この映像を多くの人に見ていただき、その中の誰かが、いつか師崎に来ていただけることがあれば、個人的にはとても嬉しい。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る