教訓を活かす必要性

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IWCを日本が脱退したことで、南氷洋での調査捕鯨は今後行われることはなくなった。調査捕鯨で大きな役割を果たしてきた捕鯨母船は、どのような経緯を経て開発されたのかを考えることで、南氷洋での捕鯨が活発化した理由について考えてみたい。

といいますか、以前から思っていたこととほぼ同じことが、先日読み終わった「鯨の教訓」という本に記載されていたので、その話を引用しつつ、話を進めたいと思います。

捕鯨母船の誕生と二つの国の鯨をめぐる諍い

捕鯨母船が開発にされるに至る経緯は、ある意味とても政治的で、別の側面からみればナショナリズムによって引き起こされた自体の打開策であったとも言えるだろう。
考え方によっては、その原因要素は日本が開国させられた理由にも似ており、捕鯨船団が必要とする「宿命的な制約」があったことを意味している。

技術で先を行くノルウェー

毎度のことながら、危機に陥ると、ヒトはアイデアを生む。

今の捕鯨技術でとれる鯨はいない。みんな資源枯渇の状態にある。では、どうするか。

これまでとれなかった鯨─シロナガスやナガスといった、泳ぎも早く、大型で、死ぬと沈むために捕獲対象にならなかった鯨に注目したのである。とろうにもとれなかったのだから、資源としての豊富さは誰の眼にも明らかだった。

一八六〇年台半ば、ノルウェー人、スヴェント・フォインは捕鯨砲を開発する。銛にロープがつけて大砲で発射し、獲物を引き寄せるこの技術は「浮くか浮かないか」を問題にしなくなった。帆船から汽船へのスピードアップも捕獲対象をシロナガス、ナガスといった大型鯨にまで拡大した。しかも「大きさ」という効率というおまけまでついて、笑いが止まらないという活況をみせる。

鯨の教訓 p.64

帆船式捕鯨で世界中の海でマッコウクジラやセミクジラという「死んでも沈まない鯨」を捕るために欧米諸国は、世界中を駆け巡り、鯨を取り尽くしてしまった。
当時の捕鯨の方法では、解体作業を海上で行なっていたことや、捕獲した鯨を固定しておく方法もなく、死ぬと沈んでしまう鯨は捕獲対象とできなかった。

唯一、そうした鯨を捕ることができた網取式の捕鯨も、主にザトウクジラに用いられていたようで、平成27年に和歌山県立博物館で企画された「鯨捕り ─太地の古式捕鯨─」のパンフレットの総論の中ではナガスクジラやニタリクジラなどの大型の鯨は相当なチャンスでもない限り網をかけることはなかったことが記されている。当時の鯨組の技術では、やはり大型の鯨を捕獲するのは大きなリスクであったことが伺える。
つまり、網取式の捕鯨は万能ではなく、結果的に帆船式捕鯨で大量に捕獲されていたマッコウクジラやセミクジラが過剰捕獲の状態に陥ったことは想像に難くない。

話を戻すが、遠いアメリカやヨーロッパからジャパングラウンドまで鯨を追ってやってくる程度には、各捕鯨国近海の捕獲可能な鯨類資源は枯渇していた状況であった(そして、最寄りの補給地として開国させられたのが日本なのだ)。
それを解決したのが、ノルウェー人が開発した捕鯨砲であった
捕鯨砲で発射する銛に繋げられたロープを牽引することで、捕獲した鯨を海中に沈めることなく活用することができた。
これは当時の状況を考えれば一つのブレイクスルーであったと考えることができる。
しかもノルウェーは強かで、捕鯨砲に関する捕獲技術を他国に伝えることなく、人材を他国に送り出すことで産業の中でのプライオリティーを高めていった。
だからこそ、次で紹介するような諍いが引き起こされたのかもしれない。

ノルウェーを牽制するために英国がとった策略

船足が伸び、船のスピードが上がり、捕獲対象鯨種が増えたことで、行動範囲も拡大していく。最強国ノルウェーは、北の海に見切りをつけた。一九〇四年、捕鯨砲を積んだノルウェー船は南氷洋に達する。そこは南極探検ラッシュによって見出され、鯨の宝庫して知られていた場所である。

当初英領フォークランド諸島に加工基地をおいて操業したが、旧とはいえど同じ捕鯨国イギリスは面白くない。技術なき自国産業も保護しなくてはならない。メンツもある。そこで、重い「課税」でノルウェーイジメを始めたのである。

「基地がなければ、どーする、どーする」とやった。

鯨の教訓 p.65

捕鯨砲の威力は凄まじく、ヨーロッパ諸国から近い漁場であった北極海の大型鯨は徐々に数を減らしていった。
北半球は比較的陸地が近いこともあり、捕鯨基地まで鯨を運ぶことも容易だったが、北極海の鯨類資源に陰りが見え始めるとノルウェーは南氷洋での捕鯨を模索し始めた。
しかし、それが面白くなかった国があった。イギリスである。
南氷洋で捕鯨操業をするノルウェーに対して、事実上の締め出しともとれるような手段で嫌がらせをし始めた。
実はこれが、次のブレイクスルーを生み出すきっかけになってしまった。

捕鯨母船の誕生とブレイクスルー

ノルウェーにも最強国のプライドがある。

「よーし、やったろうじゃないか」

とばかり、イジメられてもへこたれないノルウェーは、またまた新しいアイデアを生むのだ。一九二四年、スリップウェイ(船尾あるいは船首に開口部を設け、傾斜した甲板を船につなぐ構造をいい、鯨を船上に引き上げることが容易になった)を考案し、海に浮かぶ「基地」を作り上げてしまった。母船式捕鯨がここで始まるのである。

鯨の教訓 p.65 – p.66

実は、ノルウェー側には、すでにその基礎となる技術はあった。
捕鯨基地に係留して、採油などを行う工船が存在しており、そこにスリップウェーという技術が追加されることで、捕鯨基地から遠い場所でも捕獲した鯨を解体し採油できる仕組みを作り上げてしまった。
捕鯨産業で一番大きなブレイクスルーだとも言える技術が、このようにして誕生した。

鯨類の乱獲を促進した技術

高速で鯨を追尾し、捕鯨砲で仕留めるキャッチャーボートと、仕留めた鯨をその場で解体・製品生産にあたるスリップウェイ型母船、製品の運搬を行う運搬船といった分業船団の「効率」を黙って指をくわえて眺めているわけにはいかなくなったのである。

「効率」には素直に頭を下げる。近代産業の本性が、ムクムクと頭をもたげ、われもわれもと参入を開始する。

ノルウェー式捕鯨は、機械力に加えて、母船に三〇〇人からの労働力を詰め込んだ集約的な生産を可能にした。ただし、海の上の工場には「闘い」の矜持など必要なく、採算とノルマに追われることになるのだが。「もっともっと」が作り上げた捕鯨砲と母船式捕鯨─近代捕鯨はこうしてスタートする。

鯨の教訓 p.66

この後、何が起こったかは捕鯨問題に興味がある方なら想像に難くはないだろう。
効率を重んじるなら、より大きな鯨種を、シロナガスクジラやナガスクジラを捕獲するのが簡単であるから、そうした鯨種に捕獲圧が集中し、資源量を大きく減らすことになる。
捕鯨国は資源管理の必要性を迫られるが、最初の施策が「オリンピック方式」という「捕ったもんがち」の方法だったことも、資源量の減少に拍車をかけることになる。
「シロナガス換算(BWU)」などといった杜撰な基準を設け、鯨種に関わらず採油できる鯨油の量で漁期内の捕獲量を決定していたことを考えると、捕獲圧は当然偏り、効率よく採油できる順に捕獲圧が大きくなる。

この状況を作り出したのは、一体誰なのか?
技術を開発したのはノルウェーだったが、その状況を作り上げたのは、他でもないイギリスなのだ。
南氷洋の鯨類資源の枯渇は、この二つの国によって引き起こされたといっても、言い過ぎではないだろう。
そして、その片棒を担いだのは、科学委員会の提言を無視して長々とBWUを利用し続けたIWC自身だとも言えるだろう。

我々に必要なことは何か?

日本のIWC脱退によって、南氷洋で母船式捕鯨を行う国家はなくなった。
「南氷洋の鯨類資源の枯渇」という罪は、調査捕鯨を最後まで行ってきた日本になすりつけられるような状態で幕を閉じる形になったことは、個人的には、とても残念でならないが、どこかの国に罪をなすりつけるだけでは、おそらく同じようなことが、別の形で起きるかもしれない。

日本は、国として、もっと外に向かって説明していかなければならないと思う。
そもそも、シロナガスクジラはどうして絶滅寸前まで捕獲されつくしてしまったのか?
もし、イギリスがとった方策が違ったものだったら、現在の捕鯨産業はまた違ったものになったのではないだろうか?
そのことを、旧捕鯨国に思い出させることは、必要ではないだろうか?

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