くじらの博物館の入館者数は落ち込んでいるか

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また今回も、「イルカ漁は残酷か」への指摘です。
先日、Amazonの本著のレビューに自分の感想を書かせていただいたが、その中にも書いた内容にも重なる(もっというと、Facebookでもこのことには触れた)が、風評への影響を考えるなら、これはきちんと反論をしておくべきなのではないかと思い、記事として取り上げることにした。

博物館の入館数の評価は妥当か?

アイキャッチに掲載した画像は、僕が2014年8月14日に撮影した、太地町立くじらの博物館の、イルカショーの観客席の様子だ。
最近は便利になったとはいえ、交通の便があまりよくない紀伊半島の端にある施設だが、お盆にもなると、このように多くの人たちが訪れて、とてもよく賑わうことがわかる。
この日は南紀特有の強い日差しで目がくらみそうでしたが、博物館のスタッフが臨時で販売をしていたかき氷で涼をとりながら、楽しい夏の1日を過ごすことができた。

思い出話はさておき、「イルカ漁は残酷か」には、以下のような記述がある。

一九六九(四四)年の開館初年度に入館者数二〇万人を突破し、一九七五(昭和五〇)年頃には五〇万人に届こうかという人気を誇った太地町立くじらの博物館は、その後入場者数が減少し続け、二〇〇九年には一四万人あまり、二〇一一年には九万四〇〇〇人、二〇一三年には八万七〇〇人にまで落ち込んだ。

イルカ漁は残酷か p.271

この記述に、僕は異議を唱えたい。
何故なら、著者は2011年に起きた重要な出来事をなかったことにしたからだ(現地にまで取材に赴いたのだから、知らなかったとは思い難いので、あえて書いていないと思われる。東日本大震災の起きた年だからこそ、書かなければ知らない人もいるだろう)。
では、その年に、一体何が起こったのか?
Wikipediaにこのような項目がある。

平成23年台風第12号(へいせい23ねんたいふうだい12ごう、アジア名:タラス〔Talas、命名国:フィリピン、意味:鋭さ〕)は、2011年8月25日午前9時(日本時間、以下同様)に発生した大型の台風である。
この台風に起因する豪雨により、特に紀伊半島(和歌山県・奈良県・三重県)において被害が甚大であったため、豪雨による被害については「紀伊半島豪雨」、「紀伊半島大水害」とも呼ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%9023%E5%B9%B4%E5%8F%B0%E9%A2%A8%E7%AC%AC12%E5%8F%B7

写真は、太地町の隣に位置する那智勝浦町にある「紀伊半島大水害記念碑」だ。那智勝浦町では、この水害で合わせて29名の方が亡くなられたり、行方不明となった記録的な水害であったが、同年に起きた東日本大震災の影に隠れてしまいがちで、実際に被災された人たち以外の記憶には残りにくい傾向があるようだ。

ここではとりあえず紀伊半島大水害という呼称を使わせていただくが、僕はこの時にTwitter経由で知り合った太地町の方と連絡が取れなくなり、とても心配したことを覚えている。
のちに聞いたところ、当時電話やネット関係が繋がらなくなっており、ほぼ陸の孤島のような状態だったそうだ。
先ほどのページから、交通に関する被害を引用してみよう。

道路
高波の影響により、西湘バイパスおよび東名高速道路の下り線が、大雨の影響により、関越自動車道や上信越自動車道、北関東自動車道および中央自動車道の一部が通行止めとなった。
国道168号、国道425号などの一般国道や紀伊半島各地の県道・市町村道などの道路も洪水・土砂崩れなどの影響で寸断され、長期間に亘り迂回や通行止めを余儀なくされている。また前述の熊野川の氾濫により道の駅瀞峡街道 熊野川の施設が流出し、利用できなくなっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%9023%E5%B9%B4%E5%8F%B0%E9%A2%A8%E7%AC%AC12%E5%8F%B7

JR
紀伊半島の海岸線を走る紀勢本線では、各地で甚大な被害が発生した。
JR東海の管轄する区間では、熊野市駅構内の橋梁が破損し、多気駅 – 新宮駅間が運休となったが、10月11日までに復旧している。
JR西日本が管轄する区間(愛称:きのくに線)では、那智川の増水で那智駅 – 紀伊天満駅間に架かる橋梁が流失するなどし、新宮駅 – 湯浅駅間が部分運休となった。その後、9月5日までに白浜駅 – 湯浅駅間、9月17日に串本駅 – 白浜駅間、9月26日に紀伊勝浦駅 – 串本駅間がそれぞれ復旧し、橋梁の流失した新宮駅 – 紀伊勝浦駅間が12月3日に開通したことにより全線復旧した。新宮駅 – 紀伊勝浦駅間の不通により部分運休していた名古屋駅・新大阪駅・京都駅発着の特急列車もこの橋梁復旧により全線運行を再開している。
また、JR西日本は9月2日発着の寝台特急・サンライズ出雲号を上り下りともに運休した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%9023%E5%B9%B4%E5%8F%B0%E9%A2%A8%E7%AC%AC12%E5%8F%B7

紀伊半島の沿岸を走る、唯一の公共交通網でもあるJR各線が全線開通するまで12月までかかったことになる。
なお、この数年後に自動車道は整備され、名古屋や大阪からも気軽に自動車で行ける場所になりつつあるが、2013年に自動車で東牟婁郡を巡ってみた際には、紀伊半島大水害の影響下、通行止めの箇所も多々あり、まだまだ完全に復興できていないような気がした。
つまり、2011年の入場者数は、秋の行楽シーズンなどの稼ぎどきを完全にカウントできない状態での入場者数であり、2013年の入館者数も紀伊半島大水害の影響を若干は受けているのではないかと思われる。

つまり、その時期の南紀は、全体的に観光業が不振であった可能性が高く、その指摘もなく入場者数が減り続けていると指摘されても、客観的な指摘とはいえないのではないかと思う。

では、その後はどうなのか?

では、その後の入場者数はどうなっているのだろうか?
くじらの博物館の入場者数は、太地町のホームページで2013年までは確認できるのだが、その後更新がされておらず(ここには若干問題を感じる。できれば早急に情報を載せていただきたいものだ)確認できないが、様々な場所でイルカショーを見ることができるようになった現在でも、くじらの博物館は苦戦しつつも徐々に入場者数を増やしつつあるそうだ。
話によると、海外(主に東アジア)から来られる旅行者の入場者数が増えており、少なくとも「落ち込んだ」状態からは回復しているようだ。
実際、現在の鯨の博物館には、多国語での解説に対応した音声ガイドシステムなどを導入している。

また、伴野氏も指摘しているが、博物館内の展示に古めかしさを感じてしまうのは否めないが、地元の工芸作家の方々によって新しい企画展示なども増えている。
この画像もその一つで、鯨類の精密な模型の貼り付けられた板の裏に、その鯨類の骨格の模型が取り付けられており、くるくる回すと実際の鯨類とその骨格を見ることができるという展示で、とても人気があるそうだ。他にも古式捕鯨をわかりやすく紹介した動画を新たに制作したり、パソコンを利用した古式捕鯨のにまつわる地名の説明の展示などもあり、足を運ぶたびに変化があるのが魅力的でもあったりする。

観光産業というのは、経済状況に左右されるから仕方ないかもしれません。しかもこの40年でイルカを飼育する水族館は日本中に増えた。もう珍しい動物ではなくなってしまった

1998年に30万人を割り、さらに2008年には14万人にまで減少してしまった。

「なによりも、私たちに問題があった」と林は語る。「庄司町長が亡くなった後、情熱も進歩もなく、なんとなく続けてしまった。庄司町長が描いた夢が途切れてしまっていました。でも、5年前、那智勝浦町との合併話を断ってから鯨の博物館を見直そうという動きが生まれた。スタッフの意識改革をしつつ、ソフト面の充実を図っているんです」

捕るか護るか? クジラの問題 p.163

これは「捕るか護るか? クジラの問題」という本で、林館長がくじらの博物館の入場者の低迷について語っている部分ですが、バブル期を経て南紀の観光業が低迷していく中で、さらにはイルカの生体展示を行う水族館が各地にできるようになって、くじらの博物館は特別な場所ではなくなったことや、その中で漫然と博物館を運営してしまったことへの後悔があり、だからこそ新しい取り組みに積極的になったことが今に繋がっているのではないかと思う。
伴野氏も、そういった話を聞く機会があったにも関わらず、館長や副館長に対しては「リック・オバリーがこういうことを言っていますが…、それについてはいかがですか?」くらいしか質問をしていないのではないかと思われる。
あくまで頭の中にあるのはオバリーの言葉であって、くじらの博物館の現在については大した興味はなかったのだろう。
だから、入場者数の推移についても、このような表現の仕方になってしまったのかもしれない。

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