畜産と比較される追い込み漁の「残酷さ」の曖昧さ

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以前にこんな記事を書いた。
「残酷さ」という曖昧な定義を批判の理由にしてはならない
要約すると、「残酷という言葉の定義は個々人によって異なり、人の思いによって形を与えられるもの。それを根拠に他者の行いを貶めるのはどうなのか?」というような内容なのですが、ここで、図らずしも面白い一文を引用していることに気がついた。
それは、「イルカ漁は残酷か」の著者である伴野準一氏の言葉である。
ここで、再度引用したい。

「製作者の意図通り『これはひでえな』と思いましたね(笑い)。それがイルカ問題に関わるきっかけでした。その後、追い込み漁が行われている太地町の漁師の側に立ったNHKの特別番組が放映されたり、ケネディ駐日大使の『イルカ追い込み漁の非人道性について深く懸念している』というツイートに安倍首相が反論するなどの動きがありましたが、私は取りあえず太地町に行こうと。で、滞在最後の日に偶然、追い込み漁を目撃したんですが、確かに屠殺する場面は残酷で、ショックを受けましたね。牛や豚だって屠殺していると言う人もいますが、イルカの屠殺ははるかに残酷です」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/164078

僕がくじらの博物館の関係者に問い合わせをしたところ、彼はくじらの博物館に対して「中立的な視点でイルカ漁のことを調べたい」というような申し出をしたそうだ。
しかし、彼の心の中にはすでに結論があり、「どうすれば中立を装って追い込み漁批判をすることができるだろうか?」という策略を、くじらの博物館や追い込み漁関係者への取材の時には思いめぐらしていたのだろう。

残酷さという言葉の基準をどこに置くか?

彼は先ほどの引用部分で「確かに屠殺する場面は残酷で」と語っているが、「イルカ漁は残酷か」の中では、イルカの捕殺の瞬間を間近にみたわけではないようなことが書かれている。

青い防水シートで覆われた岸辺を上から見下ろせるたかばべ園地と呼ばれる崖上のポイントがある。屠殺現場は直接見えないものの、そこからは入江に追い込まれたイルカが、青い防水シートの下に姿を消していくのが辛うじて見える。イルカは防水シートの下に姿を消して、しばらくするとシートの外側の海水が桜色に染まっていく。

それは決して『ザ・コーヴ』でみられるトマトジュースのような深紅ではなく、ほんのりとした桃色なのだが、イルカやゴンドウの血液によるものであることに変わりはなく、そしてそれはナイフで延髄が切断された傷からの出血ではない。延髄を切断する際に噴気孔の後ろにできたナイフの刺し傷には木栓がされて、出血が食い止められるからだ(現在太地では屠殺時の放血処理を行なっていない)。

イルカ漁は残酷か p.256〜p.257

つまり、彼は取材では「イルカの屠殺を見た」と言っているが、実際にはおそらくコーヴガーディアンの撮影について行って、いさなの宿 白鯨の裏手の高台から捕殺が行われているであろう場所を上から観察していただけ、というのが正しいようだ。
彼は恐らく、桜色だか桃色だかに染まる海面を見つめながら、そして恐らくそばにいたコーヴガーディアンのクルー達がいうことを耳にしながら、ブルーシートの下で行われていることを想像していたのだろう。
つまり、彼は日刊ゲンダイの取材において嘘の証言をしていることになるのだが、彼はこういうかもしれない。自著の中でのリックオバリーのように。

「そうか。ええと、じゃあ多分私の間違いだったんだろう。多分そうだ。だがボイド・ハーネルに確認してみないと。それから日本人の女性と結婚しているオーストラリア人もいる。彼は読めたはずだ。だが、うーん。多分私の間違いだったんだろう。私も間違うことがある。誰しもが間違うことはある

イルカ漁は残酷か p.220

それはともかく、実際に直接みていないイルカの捕殺について、伴野氏は様々な地元漁師証言を元に、追い込み漁が残酷であるというコンテクストを形成しようと内容を模索する。その結果、捕殺方法や捕殺にかかる時間ではなく、他の部分に対して注目することになる。
それは、イルカは捕殺の際に自身が捕殺されることを理解するため、死に物狂いで暴れ、その際に岸に乗り上げたり、磯部の岩に体をぶつけて出血するといい、そして以下のように文章は続く。

イルカは賢いから殺してはならぬなどという気はない。しかしイルカは他にはゴリラやチンパンジーなどの一部の霊長類だけが有する自己認識力を持っている。鏡を見せれば中の鏡像が自分であるとわかるのだ。

どう低く見積もっても、牛や豚と同等程度の知能を持つことは確実であり、ことによると霊長類よりも知能が高いかもしれないイルカやゴンドウが、牛や豚に対して決して行われない方法で、しかも群単位で屠殺されている。その事実は事実として知っておかなければならない。

この引用部の中ですでに矛盾があるのですが、結局のところ、彼にとっては、賢いイルカが集団で捕殺されることが、残酷だと認識したのだろう。
彼もまた、エスノセントリズムに囚われるあまり、客観的な視点というものを喪失してしまったようだ。
「残酷である」と批判するのであるなら、その基準はもっと明確にすべきではないだろうか?

我々は残酷な営みの上に生きている

伴野氏は、畜産よりも追い込み漁は残酷だと断ずるが、しかし、本当にそうだろうか?
「牛も豚も、山のシカもイノシシも、意識があるときに受ける打撃は、あったとしても一撃だけ(p.257)」だと伴野氏は記しているが、本当にそうだろうか?
この内容の比較として適切かどうかは定かではないが、荒川弘先生の「百姓貴族」という漫画がある。
この漫画では、作者の実家で営まれている農業や畜産業の話が面白おかしくわかりやすく解説されているが、その中には牛の賢さについて扱われており、と畜場に運ぶ家畜運搬車に載せられる際に泣く牛がたまにいるという話(1巻 p.27)や、家畜特有の作業で批判も多い牛の角切りや断尾、断嘴についての話(2巻 p.69-76)など、畜産動物にも畜産動物の問題があることは、この漫画を読むであろう層には、ショックを受ける内容かもしれない。

さらに綴るとするなら、「イルカ漁は残酷か」の中で参考文献として挙げられているピーター・シンガー著「動物の解放」の「第三章 工業畜産を打倒せよ(p.127〜p.200)」の中には家畜の苦痛が多岐にわたって(ページを繰る手が重たくなるくらいに詳細に)記されている。これらの苦痛を「無かったことにする」のは、著者であるシンガー自身が忌み嫌うスピーシズム(種差別)に通ずる危険なものだと思うのだが、いかがだろうか?

伴野氏は追い込み漁を「残酷」だと断ずるあまり、畜産業の屠畜以外の部分軽視しすぎている。屠畜される以前にも様々な苦痛があり、その生もまた経済動物と称されるほど、ある日、突然無慈悲に奪われる家畜の生が、本当に追い込み漁と比較すべきものなのか?
我々は、追い込み漁や捕鯨だけでなく、様々な残酷なものの上に今の生活を築き上げていることを認識し、単に「残酷である」と一側面から断ずるだけでなく、今一度我々自身の営みに思いを馳せる必要があるのだと思う。

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