「残酷さ」という曖昧な定義を批判の理由にしてはならない

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WAZAやJAZAによって、太地町の追い込み漁に対する視線が批判的なものになりつつある。
その理由は主に「残酷」という言葉によって形容されるが、はたしてその定義は誰によって定められたのだろうか?

「RED COVE」という言葉はなぜ用いられ続けるのか?

数年前より、太地漁協では生体捕獲用の小型鯨類を追い込みの際と、食用の捕獲の際は、期日をわけて追い込むような取り決めがありました。
それはWAZAとの和解のために、地形に依存する追い込みという手法で捕獲目的で対象を分離するという、太地漁協が選んだ手段でした。
その期間内で生体捕獲を行っていた場合は、当然生体捕獲のみでしたから、鯨類の捕殺はなく鯨類の血液で入江が染まるということはありませんでした。
しかし、入江が血で染まったことを意味するRED COVEという言葉はその時にも活動家やそのフォロワーによって用いられ、残酷だというバッシングは時期を問わず行われていました。
つまり、彼らにとって、流血や捕殺に関係なく、血が流れなかったとしても追い込み漁が行われれば残酷な行いがあったということなのでしょう。
彼らは、どのような形であっても、追い込み漁の存在は許さないという立ち位置にあるのです。
 

残酷さとはなんだろう?

そもそも「残酷」という言葉は、どんな意味を持っているのでしょうか?

無慈悲でむごたらしいこと。まともに見ていられないようなひどいやり方のさま。

試しにgoo辞書の記載を引用してみたが、他のサイトや辞書でもほぼ同じような解釈ではないかと思います。
つまり、残酷という言葉の意味は、個々人の主観に基づいて語られているわけです。
拡大解釈が許されるなら、自然に分け入り野を切り開き、獣を喰らい大地を汚す人間そのものが残酷な存在だと言えなくもありません。
しかし、そこまで拡大解釈をすることは、人間という存在の首を絞め、種の消滅に繋がるような話になっていくでしょう。
ですから、一般的には、そうした主張はなされない。
ところが、人間の生活を支えるためには、多くの自然が搾取され、動物たちが消費されているという事実があります。
例えば、畜産に目を向けてみれば、経済動物のあり方自体が人間による生命の搾取の象徴であり、農業にしてもその土地に以前はどんな生き物が住んでいて、農作物を育てるために奪われた生命がどれだけあったかを考えると、清廉潔白な生業と言い切るのは難しいでしょう。
つまりは、人間という存在が生き続ける限りは、何らかの残酷な仕打ちを自然界に対して、もしくは消費される生命に対して行っているという自覚が必要になるはずなのです。
ですが、そういう意識を持った人が、世の中にどれくらいいるかとなると、疑問を抱かざるをえないでしょう。
 

追い込み漁においていわれる「残酷」という言葉の意味の変化

追い込み漁に関して、残酷さというのは、入江を染める血液の赤に象徴されていました。
それ故に、欧米の活動家は、清浄なるBLUE COVEの日を祝い、RED COVEの日を呪ったのでしょう。
その当時は、追い込み漁の問題点は捕殺の手順であったり、捕殺にかかる時間についてで、それらを指して残酷であると主張していました。
ですから、その当時の名残のように、追い込み漁の写真となると、赤味の目立つ写真が多く、中には色調の補正が行われていたであろう写真もありました。
ところが、その後影浦(追い込まれたイルカやクジラが捕殺される場所)にシートが張られ、捕殺の瞬間がわからなくなり、太地漁協の努力で、放血の際の血流操作が行われるようになると、その残酷だというイメージが共有しにくいものになってしまいました。
実際、2011年以降の漁期で、僕が活動家の中継などを見た限りでは、昔のような赤く染まった入江をみたことはありませんでした。
その頃から、イルカを水族館で飼育すること自体が野蛮で残酷だという主張が聞かれるようになり、「エンプティー・ザ・タンク(水槽を空にせよ)」というスローガンも見られるようになりました。
また、昨年ごろになってからは、「イルカを追い込むこと(そして、追い込みでイルカにストレスをかけること)」に対しても、批判が強くなってきたのです。
つまりは、彼らが主張する「残酷」の定義自体が、とても曖昧なものになってきているのではないかと感じるのです。
 

追い込み漁=残酷という図式

さて、このサイトをご覧になっている方なら、最近三つのサイトで、太地の追い込み漁が扱われたのを目にした方も多いと思います。
1つは、毎日新聞の「記者の目:和歌山・太地 イルカ追い込み漁=稲生陽(和歌山支局)」、1つはリテラの「イルカ追い込み漁は残酷じゃない? だったらテレビはなぜ漁の詳細を報道しないのか」、そして最後は日刊ゲンダイの「「イルカ漁は残酷か」伴野準一氏」です。
三つとも、個人的にはどこかズレているという印象でしたが、そのポイントを一つずつ指摘してみたいと思います。
 
まずは、毎日新聞の記事。

◇水族館用に特化 食用、他の手段で

 同漁協が昨年から一部取り組んでいるように、追い込み漁では水族館への販売用個体のみを捕り、残りは放流しても、販売価格が相応に高ければ漁業は成り立つ。一方、食用には追い込み漁ではなく、以前から沖合で続く突きん棒などの漁で捕ったとしても、必要な量は確保できるのではないか。

……この記事を書かれた記者は、突きん棒漁なら批判は起きないと考えているのでしょうが、この記事で指摘したように、既にそういう時期ではなく、追い込み漁自体を批判している活動家が多数はである以上、食用の捕獲全体を突きん棒漁に切り替えたとしても、批判はなくならないでしょう。
しかも、突きん棒漁がメインの大槌にさえコーヴ・ガーディアンズは活動家を派遣したことはありますから、批判できるポイントがあれば、捕獲方法に関係なく攻撃の対象になるでしょう。
 
次に、リテラの記事。

しかし、一方で、日本のマスコミの報道にもどうも釈然としないものが残る。というのも、先述したように、各局とも「イルカ追い込み漁は日本の伝統。残虐というならば根拠を示すべき」と口をそろえたのだが、肝心の漁の内容については、ほとんど具体的に説明しなかったからだ。つまり、自分たちも「残虐でない」という根拠を示すことはしなかったのである。

この記事を書かれた人は、このあと「イルカを食べちゃダメですか?」の捕殺に関する表現を延々と引用し、そしてフェロー諸島での追い込み漁の様子へと話をすり替え、太地町の追い込み漁の様子が放映されないのは、残酷だからだと結論づけています。
ところが、この記事を書かれた方は、ネットでちょっと検索すれば見つかるだろうの太地漁協のサイト内にある資料のPDFや、動画サイトにアップロードされた追い込み漁の動画すら見ることなく記事を書いているのです。
これはもう、着地点を予め作っておいて、そこに主張をつなげていったようにも思えます。
リテラというメディアの性質もあるのでしょうが、こういう記事の書き方は正直どうなのかなとも思います。
 
最後に、日刊ゲンダイの記事。

「製作者の意図通り『これはひでえな』と思いましたね(笑い)。それがイルカ問題に関わるきっかけでした。その後、追い込み漁が行われている太地町の漁師の側に立ったNHKの特別番組が放映されたり、ケネディ駐日大使の『イルカ追い込み漁の非人道性について深く懸念している』というツイートに安倍首相が反論するなどの動きがありましたが、私は取りあえず太地町に行こうと。で、滞在最後の日に偶然、追い込み漁を目撃したんですが、確かに屠殺する場面は残酷で、ショックを受けましたね。牛や豚だって屠殺していると言う人もいますが、イルカの屠殺ははるかに残酷です」

……まず、1つ指摘したいのは、捕殺の様子を外部から来た人間に、追い込み漁の様子を見せるはずがないんですね。
なので、この「確かに屠殺する場面は残酷で」というのは、恐らく隠し撮りされた捕殺の動画を見て語っているのではないかと思います。
このようなエピソードを挟んで、具体的に何が残酷なのかも記されずに「イルカ漁は残酷だ」という印象だけが独り歩きするインタビューというのは、あまり公平ではないと思いますし、著者は屠殺の光景をどれだけ見聞きしたのかについて記されないと、バランスが取れているとはいえないように思えます。
どちらにしても、主観が鼻につく記事ではないかと僕は思いました。
 

曖昧な「残酷」という言葉の重さや意味

どうも、最近は客観的な視座で記事を書くのではなく、「諸外国からも攻撃されているのだから、批判しても問題無いだろう」という状況ありきで書かれている記事も多いようで、この三つは近い時期に続いて公開されたこともあって、個人的に気になっていました。
ただ、これらの記事で主張されている「残酷」という言葉のもつ意味もまた、その個人によってその形を与えられたもので、実際はとても曖昧なものだというのは、なんとなく感じていただけたのではないかと思います。
それらに影響されて、自分の足元を見つめることなく他者の生業を頭ごなしに批判するような、そんな多様性のない社会というのは、恐らくとても生きづらいだろうなと、僕は思います。
この記事をお読みいただいた皆様はいかがでしょうか?

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