太地の現状(6) 投稿者 hetarefukuda
この動画で、スコット・ウエストは「鯨類を殺すことは海を破壊することだ」と言っている。
動物愛護や反捕鯨に携わる人達からは、時折このような発言がなされるが、それを真に受けてしまうのは問題じゃないだろうか?
「捕鯨が海を破壊する」ならすでに日本の海は破壊されている。
まず、一つ目は、最初に取り上げた動画で、スコット・ウエストが自信満面で語っている「イルカや鯨を殺すことは海を破壊することだ」ということへの反論を書いておこうと思う。
確かに鯨類の、海の生態系に占める位置は重要であることは確かだ。これ自体は揺るぎないことだろう。
その鯨類を活用することで、昔、大いに賑わった場所が、彼らが漁師たちと対峙している太地町である。
ところは、現在の太地町はどうだろうか?
浜に上がったセミクジラの気配は、一体何処に行ってしまったのだろう?
仮にスコット・ウエストがいうように、鯨類を殺すことが海を破壊することだというのなら、すでに日本の海は破壊された後なのだ。
もちろん、日本の海はそこにあり続けるし、未だに恵みを地元の人達や、ひいては日本各地の食卓に与えて続けているわけですから、この指摘自体がすでに大きな間違いであることは、皆さんにもお分かりいただけるでしょう。
しかし、日本の海はその昔、鯨類資源が豊富な場所であったことは、メルヴィルの「白鯨」にも言及されている事実であり、その豊富な鯨類資源を欧米の捕鯨船団が大量に捕獲し続けたことが、太地町で起きた「大背身流れ」につながっているということを、「太地町について少しだけ思ったことを書いてみる」という記事で書きましたが、恐らくスコット・ウエストはこういった歴史についての知識が無いのでしょう。
もし仮に、そのことを知っていて、なおかつこの活動に身を投じているのであれば、ここまで自信満面にはなれないだろうなと、僕は思います。
そもそも、こういった言動を、自分たちの歴史を振り返ることなく行えるのは、ある意味白人至上主義的な考えに基づいているのではないかと思わずにいられないのですが、少なくとも捕鯨の歴史を学んでいれば、捕鯨の技術は白人によって進化し、そして白人によって世界中の鯨が乱獲されたということを、自戒せずにはいられないと思うのですが、彼らは歴史を学ぶことなく、眼の前で起きている事柄だけを問題としているので、そういった自戒をすることもないのでしょう。
鯨食とカニバリズムを結びつけるのは、二重の意味で間違いである。
次に、「鯨を食べるならどうして人間を食べないのか?」や「イルカには幼児程度の知能があるのなら、イルカを食べることは幼児を食べるのと同じ事だ」という、よく分からない理屈(かといって無視することのできない言説)についての反論についてもしておきます。
まず、当然鯨類を食べることとカニバリズムを結びつけることは、これも白人至上主義的な考えであり、それは過去の彼ら自身をも批判する行為であるとも言えます。
何故なら、まだ世界中の海の鯨類資源が豊かだった頃は、彼らもまた鯨を食べていたことは事実ですし、しかも帆船式の捕鯨を行なっていた頃でも、彼らの捕鯨船の上ではイルカがごちそうでした。
彼らの行為はカニバリズムでしょうか?
いいえ、ただ鯨類を食べているだけです。人間を食べているわけではありません。
イルカの知能が幼児並みであることと、幼児を食べることは、全く違うことなのです。
まず、これが一つ目の間違いだと言えます
では、もうひとつの間違いは何でしょうか?
それは、カニバリズムを不当に貶めて考えていることです。
彼らが用いる文脈での「カニバリズム」とは、いわゆる西欧人の感覚から逸脱した行為であるという人を食べる行為を、その人達の置かれている生活環境や文化を無視して批判しているわけですから、以下のような極限状態において行われている(もしくは行われた)ことについても、等しく罵倒されなければならないはずです。
まず一つ目の例として、ヘアー・インディアンたちの存在がある。
彼らは飢饉が起きると、自分たちの子供を糧として暮らしたそうだ。
こういった行為自体は、もちろん日本の社会ではまず起きないし、理解され難い「難しい現実」である。
しかし、彼らにとっては、一族の血を絶やさぬように続いてきた習慣でしかない
彼らの一人はこんな事を言っている。
「われわれの祖先には、自分の子供を食って飢えを逃れたものがあると聞かされている。祖先にならって、私が自分の命を保とうとしたことのどこが悪いのか?」
(村瀬学 著『「食べる」思想』(洋泉社)より)
推測ですが、彼らが自分を子供に糧として与えず、子供を糧として自分たちが生き延びることを選択したのは、子供だけでは生き延びられるほど、彼らが住む自然は甘くなく、彼らは決して好んで子供を食べていたわけではないはずです。
それでも、彼らの行為は、責められなければならないのでしょうか?
そしてもう一つの例は、飛行機事故などで生き延びた人たちから稀に語られる「死体を食べて生き延びるしかなかった経験」がある。
1972年10月に起きた飛行機墜落事故で、アンデス山中に取り残された生存者達は、亡くなられた人の体を糧として生還することができた。
しかし、ここで生存者達は「難しい現実」と対峙することになる。
なぜなら、彼らは食べようとしている人たちの存在を記憶しており、その人達を食べることに強い罪の意識を感じているからだった。
その状態から生存者たちを救い、進んで食べることを選択した人は熱心なカソリック信者であり、彼はこのようなことを言っている(生存者の多くはカソリックだったが、その方は中でも熱心な信者だった)。
「彼らの魂肉体をはなれて、いまは神とともに天国にいる。あとに残されたものは単なる死骸で、われわれが家で食べている牛の肉と同じものなのだ。もう人間じゃないんだ」
(村瀬学 著『「食べる」思想』(洋泉社)より)
人を食べるということは、理解され難いのは当然だが、こういった極限に置かれてた人たちの行為を、果たして批判できるだろうか?
恐らく、動物愛護活動や反捕鯨の活動で用いられるカニバリズムという言葉の文脈は、性的倒錯や変態的行為として位置づけられていることは想像に難くない。
もちろん、そういった経験をして、罪に問われる人も、少なからずいることもまた事実だ。
しかし、食人という行為自体を調べていくと、その意味合いは多岐にわたり、その多くは先程の文脈とは異なるもので、多くは「重要な意味があるから人を食べている」ということで、そういった文化を、自分たちの判断で否定するのは、ある意味異文化蔑視であるといえなくもない。
減らされるべき人間に自分自身が含まれない言説
最後に、環境意識が高い人が用いがちな、「地球上には人が増えすぎたから、少しくらい人間は減るべきだ」という意見について反論しておこう。
真っ先に減らされるべきなのは、その言葉を吐いたあなた自身であるということだ。
自分が置かれている環境を維持するために、どれだけの資源を使い、どれだけの自然を破壊しているかを一度省みるべきで、それを理解していれば、まずそんな夢の様なことは言えるはずもないだろう。
こういった人たちの頭の中には、「資源を節約するために、(自分以外の)誰かが減ればいい」という考えがあるのかも知れない。
であるなら、あなたが命を絶つことで、アフリカの人たちが何人養えるかを一度考えてみるといいだろう。
つまり、その考えは傲慢なのだ。
そういった傲慢な考えは、マイノリティーの存在をことごとく「不要なものだ」と判断する。
その最たるものが、捕鯨によって生活している人たちや、その流通に携わる人達、そしてそれを支える政治である。
ところで、TPP加入によって、畜肉の輸入が規制緩和されることになることは、想像に難くないと思うのですが、そうなった時に検疫がうまく機能せず、家畜伝染病のパンデミックによって畜肉の入手が難しくなった際、捕鯨に反対した人たちは、どのようにタンパク源を得ようと考えているのだろうか?
菜食に変えればいいと思っている人は、アメリカには、菜食主義者の三倍の元菜食主義者が存在することを、予め知っておいたほうがいいだろう。
菜食主義に順応することは簡単ではないのだ。
動物愛護や反捕鯨に携わる人達の言説は、こういったミスリードを誘い、いかにも自分たちの考えが正しいと主張しているものが多い。
事情に詳しくない方や、議論慣れしていない方は、こういった考えに違和感を感じながらも受け入れてしまうこともあるだろう。
しかし、そういった方法論を用いることを予め知っておくことで、よく分からない連中の理屈に賛同することは無くなると思う。
こういった手合いのやり方は、詐欺師の手管と同じだと考えてもいいだろう。
だまされないためには、じっくり調べて考えて欲しい。