「ありあまるごちそう」の向こう側

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先日、ふと映画が観たくなり、Amazonプライムで何か無いか漁っていたところ、「ありあまるごちそう(We Feed the World)」という映画を見つけた。そういえば、以前に話題になったような気がしたので、早速視聴してみた。
視聴後、考えさせられたことがいくつかあったので、そのことを少し書きたいと思う。

食料資源の不均衡と資本主義

この映画の触りの部分だけ、大雑把にまとめさせていただくと、このような内容だ。

豊かな小麦の畑から収穫された小麦。
そこからできた小麦で作られたであろうパンが、次の瞬間には廃棄される。
路面に巻く凍結防止用の塩よりも農民が作った小麦のほうが安く、燃料として生産されて燃やされるだけのトウモロコシを、需要の高まりのために補助金目当ての休閑地で栽培する…。

次のシーンで、漁師たちはこんな話をする。
「EUはゾーンごとの漁の時刻と漁獲量を算出するが、しかし実際はそうはいかない」と漁業の効率化に異を唱える。
彼らが獲った魚介類は新鮮かつ高品質で、関係者からの評価も高い。
一方で大型の漁船が水揚げした魚介類には「食用ではない。売り物だ」と、漁師たちの言い回しで表現する。それは10年前は廃棄していたような品質らしい。
しかし、EUは大型漁船を優遇し、漁船の数を減らす方針のようだ…。

農業も漁業も産業化が進み、その中で苦悩する従事者たち。
漁師は言う。「その結果は、いずれわかる」と…。

この映画が始まってわずかの間に、とても衝撃的な内容をいくつも突きつけられる。
経済に翻弄される生産者たちの声が、とても印象深く表現されていて、何処かのモンタージュだらけのフェイクドキュメンタリーとは大違いだ。

その後も様々な事実が語られる。そちらについても大まかに触れていこう。

気候がよく似た場所で大量に生産される農作物は、市場を圧迫し廉売を招き、南半球の国々のマーケットにまで流れるため現地の農民たちは飢え、結果として危険を冒して移住し、過酷な労働条件で働くことになる…。

大企業によってもたらされた種子によって在来種は駆逐され、地域の農業の姿が変わり、農民たちは生活のために大量生産を強いられる。 しかしその一方で、遥かに大勢の人々は飢えに苦しんでいる。

FAOの報告によれば、今の世界経済なら120億人を養えるそうだが、一日に飢餓や栄養失調で10万人程度の人々が亡くなっている。

豊かなはずのブラジルでは、家禽の飼育に必要な飼料のために熱帯雨林は伐採され、その一方で不潔な水を飲むことを強いられ、教育を十分に受けられない人達がいる。

飢えている彼らのもとに大豆は届かず、送られるのは先進国であり、そのうちの一つが日本である。

そして、冒頭の部分につながる。
EUでは飼料の大半は輸入に頼っているが、トウモロコシや小麦などは暖房用の燃料になっている…。

作品のおよそ3分の2くらいの内容を大まかに書き出してみたが、もしよろしければ、続きは映画の方でご覧頂きたい。
家禽の解体シーンなど、一部凄惨な光景もあるが、これは自分たちの食を支えているシステムの光景であり、目をそらすべきではないと思う。
農業・漁業・畜産と様々な事柄について語られているが、さまざまな場面で市場経済によって歪められていく様が見て取れるだろう。
世界の富の大部分を握る大企業の関心は自分たちの利益の最大化であり、生産者やその他の人々の貧困や幸福には無関心なのだ。

そして、その原因の一端は、消費者である自分たちにもある…。

消費者が考えることを求められる時代

一般的な消費者は、生産の現場について意識することはほとんどない。
僕自身も捕鯨問題から視野を広げていった結果、こうした話題に興味を持つようになっただけで、そうでもない限りは恐らく気づきもしなかったことだろう。
東日本大震災のすぐ後くらいに、食料廃棄率の高さを問題視している人たちとTwitterで意見を交わしたことはあったが、その後どの程度の人たちが、自分たちの食べるものについて考え続けたのかはわからない。

「ありあまるごちそう」は、ヨーロッパで問題となっている事柄について扱っているが、日本も当然他人事ではなく、作中でもブラジルからの大豆の輸入が話題に上がっている。検索すれば平成27年の輸入量が全体の15.7%程度であることもわかり、アメリカに続いて第二位の対日輸出国だということもわかる。
ただ、ブラジル産大豆を最も買い込んでいるのは恐らく中国で、2020年3月の輸出量の全体の四分の三に当たるらしい。
そうして経済活動の影には、映画の中でも取り上げられているように、飢餓と貧困で苦しむ人たちがいることを考えると、なかなか難しい問題だと考えさせられる。

こうした話には、畜産に対する批判がついてまわることが多い。
菜食主義者は「畜産のための飼料の代わりに別の食料を作れば良い」と意見することがあるが、それも短絡的な主張となるだろう。
何故なら、別のケースで紹介されているが、どれだけ大量に食料が生産されても、その流れは富のあるところに流れ、真に貧しい人たちの手には食料は届かないからだ。
そして、様々な事情で菜食主義を標榜し、アニマルライツを叫ぶ人たちの多くは、そうした富む国々に暮らす人達であり、その富で健康的な食材を購入し、エコでロハスな暮らしを営んでいるわけで、端的に言えばそれらの批判は偽善のようなものだろう。
仮に世界中から畜産が廃絶されたとしても、貧者の口に渡る食料は確実に少ないことは、燃料とされる小麦やトウモロコシの例を見れば明らかだ。

こうした事実を踏まえて、消費者は日々の食事について、考えていかなければならない。
「ありあまるごちそう」の向う側にあるのは、飢えと貧困にあえぐ人たちの視線で、僕らの生活は、そうした人たちからの搾取でなりたっている部分が非常に大きい。

そのことを、頭の片隅に置いてもいいと思う。

鯨食の視点で考えると…?

さて、この話をなぜ書いたのかというと、再開された商業捕鯨の先行きに、ある程度の覚悟はしていたが、それでも不安を感じたからだ。
個人的には鯨食は日本人の一部に確実に残る文化であり、それは歴史からも否定はできない。
これは守られていくべきだと思う(経験としての良し悪しを問う必要はない。実際に食べていたのだから)。

しかし、鯨食を後世に伝えるためには、持続的に鯨類資源を活用できるよう、調査を綿密におこなる必要がある。
さらに、多くの人たちに認知される必要があり、そのためにはマーケットに食材として認められなければならない。
ただ、現状では他の畜産と競合できるほど資源的に豊かではなく、価格面で競うことは難しい。
逆に薄利多売によって漁業者が損をするような状況になってしまうのも問題だ。
それでは結局、「ありあまるごちそう」とかわらないのだから…。

前回の記事でも書いたことだが、以前のようには行かない状況だからこそ、単純化して責任の所在を責めたてるのではなく、持続的な食文化として鯨食の復興を願っている。
問題を単純化して語るのは簡単だ。
しかし、問題自体はそんなに単純ではない上に、現実にUNDOはない。

故に結果を焦って求めることなく、確実な方法を模索してほしいと思う。

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