「思想・良心の自由」による侵害

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太地町立くじらの博物館とサラ・ルーカスの訴訟の件が、一旦決着となったので、そのことについて少し書きたい。

NHKの記事魚拓)によると、以下のようになっている。

女性は「思想・良心や人種による差別にあたる」などと主張し、町におよそ330万円の賠償を求め、これに対し町は「女性は以前、館内で無断で撮影や取材をしたことがあり、ほかの人の迷惑になるおそれがあると判断した」と反論していました。

この争いのきっかけの部分だが、「思想・良心の自由」とある。
wikipediaを参照すると、こんなことが記載されている。

意義として、国民がいかなる思想・信条を持とうとも、それが内心のものにとどまる限りは処罰などを受けない。いかなる身分、国籍であっても、公務員、裁判官であっても、あるいは罪を犯したものであっても内心の自由は人類普遍の権利として保護される。ただし、その限界として、以下のような関連判例がある。また、判例では「外部に表れた行動」の調査(三菱樹脂)・記載(麹町中学)は「思想信条そのもの」の調査・記載とは区別されるとし、「外面的精神活動」については言及を回避する立場である。

つまり、「思うだけなら自由だよね」ということをいいたいのだろう。
しかし、件の人物は、すでにその行動によって過去に活動を行っている以上、それはすでに心のなかの問題では無いはずだ。
博物館側も設備や運営の維持のために、警戒するのが当然だろう。
ところが、判決はこうなった。

25日の判決で、和歌山地方裁判所の橋本眞一裁判長は「博物館は、女性に何ら質問することなく即座にカードを提示していて、管理の支障を生じる相当の可能性があったとは認められない。博物館の情報に接する機会を不当に制約するものだ」として、町に11万円の支払いを命じました。
また、橋本裁判長は、博物館が女性に示したカードについて「反捕鯨という思想を理由に入館を拒否するもので、憲法上問題があると言わざるをえない」として、適切でないという判断を示しました。

この判決に対して、僕はとても違和感を感じる。
「反捕鯨という思想を理由に入館を拒否するもの」とあるが、すでにその活動をしている人物の「思想」を拒否の理由にすることが、どうしていけないのだろうか?
すでに多くの方がご存知だろうが、件の人物は博物館側に無許可でテレビ番組の撮影を行い、博物館の信用を毀損しているとも言える行為を行っている。
そして、件の人物の率いるAFDという団体も、この訴訟のために作られたものであり、実態というものがない。
つまり、この訴訟自体も件の人物の活動の一環でしかなく、今回の裁判は反捕鯨活動に利用されたものだとも言えるだろう。
 
彼らは、利用できるものなら何でも利用しようとするだろう。
こうした「思想・良心の自由」による、様々な権利への侵害は、今後は多くなっていくだろう。
この裁判は、この傾向の一つの事例でしか無い。
10年後、この判決がどんな意味を持つだろうか?
忘れないようにしたいものだ。

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