座礁鯨を踏みつける文化とは何か?

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先日から気になっているニュースがあったので、そのことについても書いておきたい。
それは、ある写真コンテストに選ばれた写真を巡る議論についてだ。

座礁した鯨と、その上に乗ってポーズを付ける男性

その話題は、一週間ほど前に報じられたネットニュースから広まったようだ(こちらは魚拓)
以下、引用。

問題となっているのは9日に発表された第25回「オホーツクの四季」写真コンテストで最優秀賞を受けた作品「征服」。北見市の男性が撮影し、審査結果はセンターのホームページで発表されたほか、北海道新聞にも掲載。同センターによると、「生命を侮辱している」などの批判や、審査員の判断を疑問視する声などが電話で寄せられたという。また、ツイッター上でも「自然と命を冒涜(ぼうとく)しているようにしか見えない」「なんか嫌な感じ」「すばらしき『オホーツクの四季』に呆(あき)れました」などの批判が相次いだ。

 コンテストには北海道を中心に、全国の62人から計118点の応募があり、道写真協会の女性会員が審査。女性は「選評」の中で、「海岸に流れてきた?クジラに乗ってヤッタゼ!と言った得意のポーズの青年!滅多に見られない作品作りに成功されたと言ってよいでしょう」とした。

 女性は朝日新聞の取材に「クジラは生きていると思った。その上に乗っかるなんて勇気があると思ったし、感動したので選んだ。それが冒瀆と言われると何と言っていいかわからない」と話している。

この記事上に「生命を侮辱している」という批判もピントがズレていると個人的には感じるし、「自然と命を冒涜(ぼうとく)しているようにしか見えない」というのも、なんというかヒステリックに感じられなくもない。
この中で恐らく適当だと思われるのは、「なんか嫌な感じ」というあたりなのだろう。
僕もこの「嫌な感じ」を抱いた内の一人で、その嫌な感じの正体について、まる二日ほど考えました。
それで辿り着いたのが、「死というものを辱めているのではないか」ということでした。
 
鯨類の座礁という事象自体は、日々どこかで起きていることで、特に特別な出来事ではありませんし、それ自体が写真として収められ、場合によってはサンプルとして体の一部が保存され、さらには骨格などは特定の施設に寄贈されるようなケースもあるかもしれません。
しかし、それ自体は無くはないことで、考えられることです。
 
では、座礁した鯨の写真を、コンテストに出す行為はどうか?それを選ぶのはどうだろうか?
それ自体は、実際にあったことであり、何処でもあり得ることで、自然の摂理である以上は否定する必要は全く無いし、それらを避ける必要もないでしょう。

では、どうして今回のこの場合は「嫌な感じ」や「死というものを辱めている」と感じたのだろうか?
それは、撮影者や被写体となった男性、そして選者の無知によって行われていることや、死というものへの無神経さが原因になっているのではないかと感じたのです。
恐らく、被写体の男性も、撮影者も、この写真を選んだ審査員も、鯨類の座礁という出来事を知らず、座礁した鯨に襲いかかった苦痛や恐怖について知ることもなく、そして事切れた鯨に対しての畏敬も無いでしょう。
もし仮に、その鯨が、自分の愛した伴侶動物だったら同じことをしただろうか?
そして、その写真を撮影しただろうか?
さらには、その写真をコンテストに送っただろうか……?

女性は朝日新聞の取材に「クジラは生きていると思った。その上に乗っかるなんて勇気があると思ったし、感動したので選んだ。それが冒瀆と言われると何と言っていいかわからない」と話している。

この発言からも、選者がそれらの事象への知識や倫理的なセンスに欠ける人物だというのはわかるだろう。
ただ、そうは思うものの、外野の反応もややヒステリックで、「残念な出来事には感じるが、電話をかけてまで抗議をするだろうか?」という気もしなくはない。
むしろ「大げさだなぁ」とも感じられた。
 

座礁した鯨を踏みつける文化とは何か?

しかし、さらにピントの外れた意見をTwitterで見かけた。
というのも、この行為が捕鯨文化として正しいと主張しているようなのだ。
こういう奇妙な主張をしているのは本当にごく一部だが、捕鯨文化について考えている立場の人間としては、流石に看過できないと感じ、記事として書いておくことにした。
 
まず、この人物が捕鯨文化の担い手か否かという検証をする必要があるが、そもそもそうした道具や装束を身に着けていない以上は、そうでないと考えるほうが自然で、そうした祭事の一シーンでもないことは、周りの様子からも明らかだ。
捕鯨の現場において、解体の際に解剖担当者が鯨類の上に乗ることはあるし、そうした光景が過去の絵巻物や、出版された写真集や報道写真に存在するのは事実だが、それは捕鯨の現場での話であり、職業として必要だからあり得ることなのだ。
さらに言えば、そうした仕事は生死の間にあるもので、一つ間違えば大怪我、あるいは死が待ち構えている状況であり、そんなところでガッツポーズをするような人物は、捕鯨の現場にもいなかったであろうことは、想像に難くない。
 
そもそも論として、捕鯨をしている場所でも、または恵比寿として鯨を崇めていた地域でも、鯨という存在は特別なもので、アイヌの人たちの文化から指摘するなら、座礁した鯨は大切な糧であり、それを踏みつけることはありえないという結論に繋がるだろう。
彼らは積極的に捕鯨をすることはあまりなかった(噴火湾での毒矢を使った捕鯨は有名だが、多くは座礁したものに頼っていたようだ)ものの、彼らの言うところのカムイフンベ(神なる鯨=シャチ)が連れてくるフンベ(シャチ以外の鯨)が神聖なものでないわけがない。
また、他の捕鯨地であっても、鯨という存在は糧であり、「板子一枚下は地獄」と呼ばれる海の仕事において鯨は恐ろしいものだったことは、想像に難くない。
その鯨に対して漁師たちは畏れを抱き、それでも鯨の肉や脂、その他の様々なものを糧とするために、鯨を屠ることを生業にしている以上は鯨には毎年来てもらわないといけないという複雑な思いが、鯨塚と建立するという独特な文化に繋がるのではないかと僕は思う(あくまで私見です)。
そうした背景から考えるなら、今回のこの写真の意味するものは、文化的な行為ではないだろうということだ。
 

この話題を反捕鯨派と結びつけるのはナンセンスだ。

ざっと自分なりに調べたことも含めて、思ったことをまとめたが、この行為を正当化する理由というものが、かすかに見えてきた。
それは、こういった行為への反発が、反捕鯨団体や動物愛護団体によって行われているのではないかという妄想から起きているのではないかということだ。
当然、そうした人物も反発するだろうが、それよりももっと強い反発を抱く人物は恐らく存在するだろう。
それは、捕鯨文化を担うという人たち自身だ。
彼らからすれば、意味不明な行為の正当化のために、自分たちが担っているものを、全く関係のない外部の人間によって持ちだされるのは心外だろう。
 
持論の補強のために、理由もなく誰かのアイデンティティーを損なうようなことはしてはならないと思う。
僕自身も、応援こそするものの、自分自身が捕鯨文化を担う人間ではない以上、その文化を担う人たちの考えや歴史に対して、出来る限り理解を深めてから語りたいと思うし、語るべきだとも思う。
だからこそ、こうした得体のしれない擁護論に対して、反論をしていきたいと思っている。

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