ビハインド・ザ・コーヴはザ・コーヴへのアンサーになりえたか?【追記あり】

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そろそろ、僕もビハインド・ザ・コーヴについて、感じていたことを書くべきだろう。
そう感じたので、思っていたことを書いてみる。

あるまとめをご覧になってお越しの方へ(2016/02/22)

まず、一言申し上げます。
 
この記事は、あるまとめの最後に、チェリーピッキングのような形で紹介されました。
 
しかし、この記事はその部分だけについて言及しているわけではなく、全体的にどう感じたかを書いています。
 
「あの映画はここがおかしい!だから価値が無い!!」という意味では、全くありません。
 
むしろ、日本人で捕鯨支持側の人間が反論してこなかったことについて、頑張って反論してくださった監督については一定以上の評価をしているつもりです。
 
そのことに留意してお読み下さい。
 
また、この映画に価値が無いと本気でお考えの方は、是非ザ・コーヴをレンタルで借りるなりしてみていただいて、キチンと評価をしていただきたいです。
あの映画がどれだけ酷かったかを、キチンと知っていただいたうえで、評価をしていただきたいものです。
 
最後に、このブログは反・反捕鯨ではなく、捕鯨支持という姿勢で運営しています。
 
以上、ご理解いただいたうえで、以下をお読みいただけると嬉しいです。


 

本来の記事はここからです

ビハインド・ザ・コーヴが一般公開され、それに先んじて一部サイトが攻撃されるなど、一部では話題になってきた。
この映画についても、様々な媒体で触れられ、そろそろネタバレ(この手の映画にもある概念なのかはわからないが)的な内容のツイートを見かけるようになった。
 
そろそろ、僕もビハインド・ザ・コーヴについて、感じていたことを書くべきだろう。
 
この映画は「ザ・コーヴ」へのアンサーという語られ方をし、チラシなどにもそう記載されている。
しかし、この映画を「ザ・コーヴ」へのアンサーとするのは、個人的には違和感があった。
そのことについて、書いていきたいと思う。
 
 

反・反捕鯨映画という立ち位置

この映画は、よくも悪くも反・反捕鯨という立ち位置の映画だといえるだろう。
そのことは、この映画の冒頭のシーンからも、そして監督自身の発言からも感じられることだ。
わかりやすい食文化という切り口、そして、この映画の結末に至るまで、反・反捕鯨というスタンスの、典型的な主張が続いているが、この事自体、僕も批判するところはないし、この趣旨としては、全くゼロの部分からよくこれだけの映画を作ったなという驚き、監督の精神力の強さには敬意を評したいと思う。
 
ただ、細部にはやはり詰めの甘い部分がないわけではなく、証言者の語った内容について十分な精査がされていないのではないかと感じられるところが幾つかあったり、反論として上がってくるであろう主張を検証したうえで、その反論を許さないような手堅い内容にしていく必要があったのではないかと思う。
 
特に、ストックホルム会議からの「アメリカ陰謀説」ともいえる部分は、既に「解体新書「捕鯨論争」」の中では否定的に扱われている。
これはある意味、捕鯨に関する議論の中ではよく出てくる話題なので、梅崎氏の証言を取り上げるのであれば、その内容の検証もすべきではないかともいえるだろう。
この本自体、僕個人としてはひどい内容だと思っているが、すでに否定的に扱われている内容である以上は、その内容に疑いがないように、きちんと表現をしておく必要があると思う。
もっとも、このあたりは、独力であることや、時間的な制約もあったため、どうしても手薄になってしまうのかもしれない。
その辺りも含めて、次回作に期待したいと思う。
 
 

足りていない「ザ・コーヴ」への反論

僕が一番残念だと思っているのは、僕がこの映画が「ザ・コーヴ」への反論の映画だと考えていたが故に、実際はそうでなかったということだろうか。
この映画では、太地町在住の、元捕鯨関係者の証言こそあるものの、現在の太地町で行われている追い込み漁や、この漁業がどうして行われているのかという説明がほぼなかったことだ。
ザ・コーヴへの反論であるなら、そのあたりの言及がやはり必要ではないかと思うし、その部分をつまびらかにしてこそ太地の追い込み漁関係者に向けられている疑惑を晴らすことが出来るのではないかと個人的には思っているし、それを僕はこの映画には期待していた。
 
リック・オバリーやルイ・シホヨスへのインタビューを敢行したことは素晴らしいと思うし、こんなことがよく出来たなと思う反面、やはり画竜点睛を欠く状態に感じられてしまうのだ。
もちろん、元々の監督が持っていた映画のコンセプトもある以上、そこにこだわるのは当然かも知れないし、それを否定するつもりはない。
しかし、「ザ・コーヴ」をタイトルの中に含めていて、「ザ・コーヴ」へのアンサーであるというなら、ある程度の反論が欲しくなる。
「ザ・コーヴ」という映画は反論の内容は、資料をあたれば山ほど出てくるものなのだから、そこが惜しいと思うのだ。
それが僕の感じた違和感なのだろう。
 
 

アンサーになりえていないアンサー

もっとも、何がアンサー(もしくは反論)になり得るかは、個々で受け取り方は違うかもしれない。
ひょっとすると、「ザ・コーヴ」を前もって観ていない人もいるかもしれない。
であるなら、そもそもアンサーなど必要としていないのかもしれない。
こと、捕鯨問題というのはナショナリズムに覆われる傾向もあるため、欧米人のエスノセントリズムへ反発が表現されていれば、いい映画だと感じてしまう層もあるだろう。
そういった層には、きっと受けはいいだろう。
 
しかし、実際はそんなに単純なことではないと思う。
先日の投稿に「本当に鯨食文化を護るのなら、鯨を食べなければならない」というようなことを書いた。
この場合でも、「本当に捕鯨を正しいと思っているなら、その正しさを訴えていかなければならない」のだと思う。
その為には、知らなければならないことや、言わなければならないことがあり、「ビハインド・ザ・コーヴ」という映画は、まだこの条件を残念ながら満たせていないのではないかと思う。
かなり辛い評価だとも思うが、これは監督や作られる映画に可能性があるからだ。
八木監督には、「ビハインド・ザ・コーヴ」関係の仕事が一段落したら、是非次回作を作っていただきたい。
一般公開前にも大きな影響を産み、アノニマスの妨害にあうだけの反響があった映画を作り上げたのだから、協力者はきっと出てくるだろう。
 
次回作は急がずじっくりと、考えて作っていただきたい。

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