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一部の執筆者がwikipediaをダメにしている

By kujiratalk, 2015年10月24日

前回書いた記事が、どうも風評被害を与えているという指摘があったようです。
では、そのことについて検証してみましょう。

さて、前回書いた記事の内容を三行でまとめると、

  • Wikipediaには内容がいい加減な記事が存在する。
  • 読んでもいない資料を根拠に、記事を書く人がいる。
  • 偏ったイデオロギーの持ち主が記事を編集することで、wikipediaの信用は低下していくだろう。

……と、いった感じの内容です。
それを頭の片隅にでも置いておいて下さい。
それで、本題に入ります。

相変わらず、資料の存在は軽視される

さて、問題の項目の内容を確認してみましょう。

背美流れ

1878年暮れ、太地(和歌山県)で鯨を捕って生計を立てていた漁師たちが、その時に紀州を襲った猛烈な嵐により、100名以上が遭難し死亡した記録が残っている。背景は、西洋列強がクジラを捕りすぎたために沿岸の漁業しかできない太地ではクジラが取れなくなり漁師が困窮し、たまたま発見したセミクジラを荒れた海の中でさえ、捕りに行ったためである。
しかし近年、下記の通り沿岸捕鯨で個体群の著しい減少と過剰捕獲による採算が取れなくなった可能性が指摘されている。太地組終焉の原因が背美流れにあったという意見に対する相反(内外の組織間とくに重鎮一族における確執、近隣猟場の買い取りや北海道への進出の失敗後の再進出など事業の無計画性、「重鎮の放蕩」といった噂の流出など、が鯨組の経営・財政難を招いたとする事態に対して何らかの意図があって創られた説話)や「背美流れ」の唄および子持ちの殺生の戒め等々が事件後に作られた創作であったとする意見も存在する。

※前引用部分と同様に、見出しなどは管理人が適宜設定。及び注釈へのリンクは可読性を考慮して削除。
 
まず、前段の太字でない部分は恐らくそのままだと思われますが、太字の部分に編集が加えられ、内容が増えています。
この内容ですが……、参考文献であるはずの、

^ 熊野太地浦捕鯨史編纂委員会 ,1990,「鯨に挑む町―熊野の太地」

この書籍には書かれていない内容です。
何故僕が知っているかというと、それは、僕がこの書籍を持っていて、読んだことがあるからです。
前回も説明しましたが、1965年に発行されたその本の該当部分は、太地五郎作氏の著書「熊野太地浦捕鯨乃話(著:太地五郎作)」からの引用という形で当時の記録が記されています。
その本に、なぜその書籍の内容を否定する内容が記載されているかという矛盾を考えると、完全に筋が通らないんですね。
ましてや、当時は現在の様はDTPによる出版ではありませんでしたから、自由に紙幅を調整することなんてできませんでしたから、「嘘だとわかっていることは最初から書くはずがない」んです。
 
それを裏付けるものが存在していました、それは、以前までの現地の記述です。
これには「山見での二人の旦那の意見は対立した」と書かれている部分があります。
つまり、最近までの太地町の公的な見解では、太地五郎作氏の語った「熊野太地浦捕鯨乃話」の内容、ひいては「鯨に挑む町―熊野の太地」が正しいとされていたのは事実です。
また、「鯨に挑む町―熊野の太地」には「鯨方崩壊の直接動機となったのはむろん背美流れの大遭難である」とも書かれています。剽窃される可能性を考えて、ページ数はあえて記載しませんが、これは読んでいけばわかります。
つまり、2012年の時点での太地町の見解としては、それらのエピソードは事実であり、結果「鯨に挑む町―熊野の太地」にこれらが創作であったという記述があるという指摘は間違いだということになります。
 

ネットの言説をつなぎ合わせた意見だからこそ生じる矛盾

「2012年の時点で」と書いた理由は、現在はこの見方に変化が生じているからです。
それは、現在の現地の解説を読むとわかることですが、新しい解説には二人の旦那が話し合いをしたエピソードがなくなっています。
これは、恐らく太地覚悟氏の子孫である太地亮氏が、当時の和田金右衛門の日記などを研究して明らかになったことなのですが、当然そのことは「鯨に挑む町―熊野の太地」には書かれていません。
つまり、相変わらず「出典の資料に書かれていないことが書かれている」わけです。
何とかして意見の対立に決着をつけようとしたのかもしれませんが、wikipediaは勝敗を競う場でもなければ、自分の知識量を競う場でもありませんので、こうした編集者のエゴイスティックな姿勢が、記事の質を低下させていると考えると、それは由々しき事態です。
 
そして、その部分を記述したアカウントが、ソックパペット(多重アカウント)だったという可能性も考えると、これはもう正しく運用しろというのが難しいというものでしょう。
やはり、wikipediaの記述は、そのまま信じるのは難しいようです。
出典を蔑ろにして、百科事典の編集に固執するあまり、嘘にまみれた記事を書き上げて悦に浸るような状態では、やはりwikipediaの記事を書く資格はないと思います。
 

何が風評被害を与えているのか理解できません

さて、話を戻します。
こういったwikipediaの信憑性について、「前回お前が書いたせいで、太地町に対して風評被害を与えていることになるが、責任はとれるのか?」という指摘があったそうです。
正直に言いますが、ワケがわかりません。
この指摘の一体何が「風評被害を与えている」のでしょうか?
むしろ、wikipediaを利用して、イデオロギーにまみれた言説を広げている人たちこそ、風評被害を与えていると、僕は思います。
そもそも、前回の記事では、「大背美流れは創作だった」とwikipediaに書かれていたことの検証であり、それを通じて「wikipediaってあてにならないよね」という話だったわけです。
それのどこに、風評被害を与えている要素があるのでしょう?
なんだったら、太地町の皆様にお聞きしたいです。
僕は、あなた達に風評被害を与えましたか?
次は来年のお弓神事の時にでも太地町にいこうと思いますので、もしこれが風評被害を与えている行為だと思われているなら、直接罵倒してくださって結構です。
 

wikipediaを編集したいなら資料を探せ

wikipediaの件のページには、2013年の1月から未だに『独自研究が含まれているおそれがあります』や『正確性に疑問が呈されています』という指摘がなされています。
つまり、その当時からページの信用性はあまり高くなかったと評価されていたのでしょう。
そんなページを、資料も当たらずに編集することで、一体誰だ得をするのでしょうか?
wikipediaというものが新しい時代の百科事典だと考えるなら、一番重要視されなければならないのは、その記事を読む読者に有益か否かであり、特定の事実を捏造したり、特定のイデオロギーによって傾けられた情報を流布するすることではありません。
誰にでもできることだからこそ、こういったポリシーは守られなければならないでしょうし、そうでもないかぎりはwikipediaを信用して考えるというのは、あまりにも危険ではないかと思いますが、皆様はいかがでしょうか?

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