動物愛護とは「人間の関係性」の問題である

By kujiratalk, 2015年4月26日

「くじらとーく」というサイトをだらだらと運営してそろそろ4年が経とうとしています。
その間に考えていたことの1つについて、最近、若干納得の行く解が見いだせた気がしました。

捕鯨問題とは、一体何なのか?
何が「問題」になっていて、どうすれば日本は捕鯨を再開することが出来るのだろうか?
そんな漠然とした問題を考えることが、おおまかなテーマになっていましたが、その問題を更に細分化していくと、様々な要素を見つけることができます。
政治的、文化的、経済的、科学的……、「捕鯨」という経済的な、もしくは文化的な事柄には、様々な論点があり、様々な考えがあり、それらを少しずつ知ることで、全体を把握できない世界という姿の形を、少しだけ垣間見ることができたような気がします。
多くは、非常に明快で、僕のような頭の悪い人間にも見えてくる要素ですが、中には理解に苦しんだ要素もありました。
 
それが、動物愛護という要素でした。
 
何冊か書籍を読み、自分なりの解を見つけようとしましたが、どうしても「これはもう屁理屈というしかない」というレベルでしか理解できない事が多く、ある部分匙を投げたような、そんな状態で長い時間が過ぎました。
ところが、あるきっかけで、そこに妥当な解を、先日見出したような気がしました。
これは気のせいかもしれませんが、忘れないうちに、どこかに書いておこうと思い、今月二度目の更新をしています。


今まで僕は、動物愛護というのは、人間と動物の権利に関する問題なのだと思い込んでいました。
動物愛護を叫ぶ人たちの多くは、その不平等さに怒り悲しむ人たちだと、思い込んでいたのです。
ところが、こういった人たちの多くは、また別の存在に対しての不平等に関しては、何ら不満を語ろうとしないようなのです。
 
「動物(ここでいう「動物」は哺乳類の場合が多く、それも可愛ければ可愛いほど、人間に近ければ人間に近いほど優遇される)」こそが搾取され合われるべき存在なのだと、声高に叫ぶことはありますが、自分達が食卓に並べるサラダのことは「植物からの搾取だ」と考える人はいないようです。
動物愛護を主張する人たちは、「植物には感情がなく、痛覚もない。だから食べても構わない」といいます。
では、「痛覚を有せず、感情を持たないイルカがいたら、あなたはそれを食べますか?」と質問したら、彼らはどう答えるだろうか?
 
動物愛護のバイブル的な書籍の中に、「動物の解放」という書籍があります。
その著者であるシンガーは、人間と動物の境界を不鮮明にするような趣旨の話を様々な例えで行っています。
簡単に言うと「言語や知能を持つことが人間と動物の境界だとするなら、重度な障害者や乳児は果たして人間なのだろうか?」と言うようなことから、動物と人間の境界を曖昧にし、動物の権利や動物を護るということについて語っていくのです。
この本の中には「実験に動物を用いるのではなく、重度の障害者や乳児を用いる方が望ましい」というような主張もあり、読み進んでいくとその理解できなさに目眩がしてきます。
僕が出した「痛覚や感情を持たないイルカを食べるか」とシンガーの言う「乳児や重度な障害者を用いた実験」という例えの比較は、一見吊り合わないように思えますが、現在世界中で人体実験が基本的に禁止されていますから、どちらもない話であり、相応に釣り合うのではないかと僕には思えます。
どちらも、場合によっては難しい問題であるという意味では、全く同じなのです。
種差別という言葉は、1つの難しい問題を切り分けるナイフとして作りだされましたが、そのナイフは尖すぎるために自分自身も傷つけるものになってしまったのです。


こんな事を考えていると、色々な縁がありまして、実際に動物愛護的な活動をされている現場の人の意見をお聞きすることが何度かありました。
ここで言う現場というのは、Twitterだけで暴力的な言葉と残酷な画像を魅せつけるスラックティビストではなく、実際に地域猫の保護やTNR活動などを行っている方を始めとした、実際に動物に関わり、人間との共存の道を模索している人達のことです。
そういった現場の方々は、猫にさえ菜食を押し付けるようなスラックティビズムには賛同せず、人間の社会の枠組みを強烈に否定することなく、出来る範囲の活動を続けています。
当然、護るべき存在の死に相対し、その現実の難しさや辛さを目の当たりにすることも多いでしょう。
ですが、そういった活動をされている人ほど、スラックティビストの存在に批判的なようです。
自分が属していないコミュニティーで起きた出来事に対して、扇動的に騒ぎ立てるスラックティビズムを批判し、冷静に事象を見守っている、そんな印象を受けました。


そして、先日のことですが、「「地域猫」のすすめ」という書籍を読み、タイトルのようなことにたどり着きました。
地域猫の保護に関する問題は、動物愛護的な視線で語られがちですが、実際はその地域の人間関係によって解決されるものがほとんどで、これは猫という動物を中心に添えた、人間同士の問題なのだという内容の話がありましたが、猫を様々な動物に置き換えると、捕鯨の問題や動物愛護の問題も、説明がつく部分があるのではないかと、そんな気がするようになりました。
つまり、この「動物」が何に変わったとしても、同様の問題は起きます。
なぜなら、それは「動物」という口実を理由にした人間同士の問題だからです。
 
人間同士の問題だからこそ、その問題の中心にある存在について、それほど深い知識を有せずにでも他者の批判をすることができますし、その関係性故に、関係が破綻すれば、言い換えると反対側の意見を根絶すれば、問題は解決すると思われがちなのです。
しかし、どちらの意見も根絶されることはありませんし、同じ主張の繰り返しになってしまいがちなのです。
また、その外側にある問題については無知なので、また新たな標的を探すことになり、同じようなループを繰り返すだけで、問題の解決に結びつかないのです。
実際に、その口実であるところの「動物」に対して大した知見も持たない人たちが、その事実や現実に背を向けたまま、現場で様々な現実と向き合っている人たちに対して文句を言っているという場合がほとんどなのだと感じています。
 
例えば、これを鯨類に関する話題で考えてみると、先日のカズハゴンドウのマスストランディングのような鯨類の座礁に関して、対応をするのは鯨類の飼育をしている水族館などが対応をすることが常ですが、この際に活動家ができることはほぼ皆無です。

「水族館を空にせよ!」と水族館の近くで叫ぶ人たちは、現場に駆けつけることなく座礁した鯨類を見殺しにするのです。
こうしたケースの知見は、鯨類に関しての飼育実績がなければ得ることもできませんが、その飼育自体を追い込み漁批判のために反対する活動家たちですから、できることなどありません。
でも、活動家たちは、その事実を黙殺して、憎き追い込み漁の漁師達を攻撃し続けるために、水族館の存在を否定せざるをえないのです。
ここまで来ると、これは鯨類の保護が問題になっているのではないことがよくわかると思います。
 
そうした問題を解決するためには、その現場についてできうる範囲で説明できる第三者が必要になってくるのではないかと、そんなふうに感じています。
折しも、日本人監督による捕鯨問題を扱ったドキュメンタリーが制作されています。
クラウドファンディングでの資金を調達を試みている最中で、進行はあまり芳しくないようですが、現在では残り88日ということで、まだまだ成功の可能性は十分にあると思います。
捕鯨問題に興味のある方は、是非協力していただきたいと思います。

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